年金生活者になったことを機に始めた本格的な旧街道歩き。健康管理と物見遊山を兼ねた健康ウォークは63歳から歩き始めてあっという間に3年、道中訪れた神社仏閣は600ヶ所を超えました。備忘録を兼ねてインスタに残した記録も500ヶ所を超え、写真だけ眺めるのも楽しいものです。

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街道歩きで神社仏閣を巡っていると、昔は神社とお寺が一緒だった、神社の中にお寺があったとか、別当寺院だったとか、合祀されたとか由緒に度々説明が出てきます。神社の種類や寺院の宗派に続き、今回はこのあたりを調べてみたいと思います。
神仏習合とは?
日本にはもともと、太陽や山や川、木や岩など自然物や自然現象を崇拝する「神道(神様)」がありました。万物に霊魂が宿ると考えるアニミズムと関連が深い神話に見られる信仰形態です。


6世紀頃、インド・中国を経て百済からの公式な伝来により「仏教(仏様)」が日本に本格的に広がります。538年・ご・さん・ぱい(ご参拝)、百済の聖明王から仏像や経典を献上された仏教公伝です。
仏教を受け入れる蘇我氏と反対する物部氏が激しく対立しましたが、蘇我氏が物部氏を滅ぼします。摂政になった聖徳太子は十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記し、仏教を国の基礎に位置付けました。三宝とは「仏・法・僧」のこと、法隆寺や四天王寺などが建てられ仏教はひろがります。


普通、異なる宗教が出会うと争いが起きることが多いですが、「どちらも大切にしよう」と考え、両者を融合させます。これを「神仏習合」と呼び、太子が広めた仏教と、古来から日本に伝わる神道の信仰が融合していく「神仏習合」の思想は、太子の没後に奈良時代に本格化しました。
なぜ混ざり合ったのか?
なぜ全く違う宗教が一緒になったのか、まず「仏教の圧倒的な力」が考えられます。当時の仏教は、最先端の「学問」や「技術」であり、国を守るための強力な魔法のようなものと考えられていました。
次に、「神様への敬意」、土地を守っているのは古来の神様。「仏教の力を借りるには、土地の神様の許可や協力が必要だ」と考えられたわけです。そして、神様と仏教が互いに守り救うという考えも生まれました。
歴史的な流れ(考え方の変化)神仏習合から廃仏毀釈へ
神仏習合は、時代とともに考え方が進化していきました。
【奈良時代】神様が仏教を守る
「仏教はすごい教えだから、日本の神様がそれを守護しよう」という段階。お寺の中に神社(鎮守社)が建てられ始めました。
【平安時代】本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)
これが神仏習合の完成形です。「神様と仏様は実は同じ存在」という考え方。本体は仏様「本地」。仮の姿が神様「垂迹」、「インドの仏様が、日本人を救うために、親しみやすい日本の神様の姿に変身して現れた」という解釈です。これとは逆に神様が本地であり、仏が神の仮の姿であるとする神本仏迹説、反本地垂迹説という考え方も後に登場します。


【明治時代】神仏分離(しんぶつぶんり)廃仏毀釈
明治政府が「天皇中心の国づくり」をするため、神道を国教化しようとしました。そこで「神と仏を分けなさい」という命令が出され、神社から仏教的な要素を取り除く運動が広がります。そして、多くの寺院や仏像、仏具が壊されました(廃仏毀釈)。これにより、現在のように「神社」と「お寺」は明確に区別されるようになりました。



神社の境内にお寺があった「神宮寺(じんぐうじ)」
神宮寺(じんぐうじ)とは、簡単に言うと「神社の境内の中に作られたお寺」のこと。「神社の中にまたお寺?」と不思議に思うかもしれませんが、これは当時の「お寺が神社を管理・運営するシステム」そのものでした。
【建物】について
神宮寺があった頃の神社は、鳥居をくぐると、神様のいる「本殿」のすぐ横に、仏様のいる「お堂」や「三重塔」、お経を納める「経蔵」が建っていました。神社なのに、お寺の「鐘(梵鐘)」があり、ゴーンと鐘の音が鳴り響いていたわけです。「鳥居の向こうに五重塔が見える」というのが、かつての大きな神社のスタンダードな風景でした(現在の日光東照宮などにその名残があります)。

【人・組織】について
多くの大きな神社では、お坊さんが神主(神官)よりも偉い立場、これが神宮寺の最大の特徴です。別当(べっとう)は、神社の最高責任者であるお坊さんの役職名。彼らは「神社の経営権」を握り、政治的な判断や予算管理を行っていました。
社僧(しゃそう)は、神社に所属するお坊さんたち。彼らは境内の「神宮寺」に住み込み、神様にお経をあげる仕事をしていました。もともとの神道の神主さんもいましたが、多くの神社ではお坊さん(別当)の下で、神道の儀式だけを担当する実務係のような立場だったようです。
【儀式】について
「神様は仏教の教えを聞きたがっている(または、仏教の力で救われたがっている)」と考えられていたため、神様のご神体の目の前で、お坊さんがお経を読み上げ、神様にはお酒や魚だけでなく、仏教式のお香や花も供えられました。
具体的なイメージ(旧・鶴岡八幡宮の例)
鎌倉の鶴岡八幡宮は、明治時代になるまで巨大な神宮寺(鶴岡八幡宮寺)でした。境内には巨大な「多宝塔」や「護摩堂」が建ち並んでおり、幕府の役人やお坊さんが運営を取り仕切り、実質的には「幕府直轄の巨大仏教施設」として機能していました。
廃仏毀釈により、これらのお寺の建物はすべて破壊・撤去されました。今の広々とした境内は、お堂や塔を取り壊して更地にした跡地でもあります。

神仏習合の具体的な名残(なごり)
現在でも、神仏習合の名残はたくさんあります。
• お守り文化: 神社もお寺も同じように「お守り」や「御朱印」があります。
• 行事の使い分け: 日本人の多くは、結婚式や七五三は神社(神道)、お葬式はお寺(仏教)で行いますが、これは神仏習合の感覚が残っているためです。
• 七福神: インド(仏教)、中国(道教)、日本(神道)の神様がチームを組んでいます。

最も有名なのが、神様に「◯◯権現(ごんげん)」や「◯◯大菩薩(だいぼさつ)」という名前がついているケースです。これらはすべて「神様と仏様が合体した姿(チーム名)」のようなものです。
八幡大菩薩
日本で一番数が多い神社である「八幡さま」は、神仏習合のトップスター。
• 神様: 武運の神様(応神天皇の霊)。
• 習合した相手: 阿弥陀如来(あみだにょらい) など。
奈良時代、東大寺の大仏を作るときに、「私が大仏作りを全力で手伝います」と宣言したとされ、「仏教を守護する最強の神様」というポジションを確立しました。 そのため、神様なのに「僧侶の姿(僧形八幡神)」の像が多く作られたり、「大菩薩」という仏教の最高ランクの称号で呼ばれたりしました。
熊野権現
・場所:和歌山県・熊野三山
「権現(ごんげん)」とは、「仏が仮(権)の姿で現(現)れた」という意味。熊野は「死後の世界(浄土)」に最も近い場所とされ、神様たちの正体(本地)は仏様だと明確に定義されました。
• 神様: 家津美御子大神(ケツミミコノオオカミ=スサノオ)
• 習合した相手: 阿弥陀如来(あみだにょらい)
「熊野にお参りすれば、来世は阿弥陀さまのいる極楽浄土に行ける」と信じられ、平安時代の貴族から庶民まで「蟻の熊野詣」と呼ばれるほど参拝者が殺到しました。


神仏習合は、「新しい文化(仏教)を取り入れつつ、昔からの伝統(神道)も捨てずに共存させる」という、日本独特のバランス感覚から生まれた知恵でした。明治時代に制度としては分かれましたが、私たちの心の中には「どちらも尊い」という感覚が今も根付いています。
街道沿いの神社仏閣にも神社と寺院が隣同士だったり、ほぼ同じ敷地内にあるものが見受けられます。このような歴史があったことを踏まえて、これからはご祭神の名前、背景や歴史を確認して参拝しようと思います。
歴史を学ぶ大切さを痛感しています。さらに神道について理解を深めるため古事記や日本書紀など、日本の古代史について次回は調べてみようと思います。
