鎌倉街道 街道を歩く その7 歴史を訪ねる シニアの健康ウォーキング ゆめが丘→湘南深沢

鎌倉街道 街道を歩く その7 歴史を訪ねる シニアの健康ウォーキング ゆめが丘→湘南深沢 街道ウォーク
Photo by ゆう
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鎌倉街道 その7 ゆめが丘→湘南深沢

鎌倉街道その7は、ゆめが丘→湘南深沢
距離は19,1Km、所要時間5:16時間 25,536歩、消費カロリー1,944kcal

※画像はクリックすると拡大でご覧いただけます。
※マップの左上、ボックス□→マークをクリックすると歩行ルートがご覧いただけます。

※スマホでも読みやすいように、改行が多くなっております。PCでは少々見づらくなっていることをご了承願います。

ゆめが丘→俣野

異次元空間を感じさせてくれるオシャレな「ゆめが丘駅」から出発です。駅周辺のお店も異次元、AM10時前なので、コンビニしか開いていません。。。街道歩き初の公園ベンチでのコンビニおにぎりモーニング。これも良き経験。

相鉄いずみ野線の高架が続く広大な風景に癒されながら街道めざしてウォーキング開始。街道に出ると富士塚公園に到着、「富士塚城址」の石碑が立っています。

相鉄いずみ野線の高架が続く広大な風景
「富士塚城址」の石碑

富士塚城は源頼朝の御家人・飯田五郎家義の居館があったとされる場所。家義は頼朝が石橋山で挙兵し敗れたときに、頼朝を箱根山まで導き安房に脱出させた命の恩人。頼朝を助けた話は、梶原景時の洞穴の話が有名ですが、飯田家義の働きも大きく、所領を安堵されました。

しばらく旧鎌倉街道の上之道を進むと左手に見えてきた参道が巨木山「 東泉寺」、山門は趣があります。曹洞宗の寺院で、創建は天正年間と考えられており、開基は筧為春。徳川家康に従って下飯田を領した旗本です。

東泉寺への参道
東泉寺 山門と大イチョウ

巨木山と山号を名乗っているだけあって門前の両脇には大きな銀杏の木があります。また、境内にある筧為春によって移転された薬師堂は、先ほど訪ねた富士塚、飯田五郎家義が信仰したとされるもの。家義ゆかりの寺でもあるようです。

すぐお隣には治水の神、金毘羅神を祀る「琴平神社」、神仏分離までは東泉寺の鎮守として一緒だったようですね。境川が近くを流れていますので頷けます。

東泉寺 本堂
琴平神社

その境川を右手に見ながら進むと、境川遊水池公園が正面に見えてきました。テニスコートや多目的グラウンドも擁する大きな公園沿いを進み和泉川に架かる「新折越橋」を渡ります。

向こうに見える五重の塔のような建物、現在は横浜薬科大学の図書館だそうですが、閉園した横浜ドリームランドの名残。21階建てのタワーホテルだったところです。

俣野地区に入ると二叉の分岐点に来ました。真ん中に道標を兼ねた「庚申塔が3基」立っており、台座に「右飯田町」と刻むのがあります。これも街道らしい風景です。

和泉川に架かる新折越橋
庚申塔が3基

少し街道を離れて細い道を進むと、御祭神として欽明天皇、須佐之男命が祀られている「上俣野神社」、創建は推定で6世紀、第29代天皇である欽明天皇の時代に創立されたと伝えられており、古くから旧上俣野村の鎮守として崇敬されてきました。

このあたりは、かつて平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した武士団・俣野氏の本拠地。上俣野神社はその歴史的な集落の中心に位置しており古社らしく鐘楼も残っています。

住宅街の奥にあり、境内は非常に静かで落ち着いた雰囲気の神社。入り口の鳥居をくぐると、まっすぐな参道が社殿へと続いています。

上俣野神社 拝殿
上俣野神社 鳥居と参道

街道に戻り交差点まで来ると、コンビニの向かい側に「俣野観音堂」があります。本尊は十一面観世音菩薩で
霊場鎌倉郡三十三所観音霊場 第24番札所とあります。

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、この地の豪族、俣野景久の館が近くにあったとされる場所。頼朝と戦った、大庭景親の弟・俣野景久の守護仏だった観音像を安置したと伝わっています。景久は木曽義仲の軍と倶利伽羅峠、その後、加賀篠原の対戦で討ち死にしています。由緒ある観音堂の周辺には、古い石塔なども残っていました。

街道を明治学院大学のグラウンドに沿って進み交差点を右折となります。庚申塔と青面金剛像が並んでいますので目印となります。

俣野観音堂
庚申塔と青面金剛像

俣野→湘南深沢

境川の支流に架かる宇田川橋を渡り、のどかな路を歩けば「鎌倉街道の案内板」、「庚申塔とお地蔵様」、参道が左手に見えてきます。先にあるのが曹洞宗の「龍長院」、本尊は聖観世音菩薩で創建は1648年。この地域の領主であった旗本の野々山氏が、亡くなった一族の菩提を弔うために建立したと言われています。

鎌倉街道の案内板
庚申塔とお地蔵様
龍長院への参道

境川沿いの平地から少し上がった高台に位置しており、境内には瀧も流れています。美しい庭園が広がり、延命地蔵尊の立派なお堂もありました。昔は遮るものがなく、素晴らしい眺めだったことでしょう。

龍長院 境内には瀧も
龍長院 本堂

すぐ先には「八坂神社」があります。「龍長院」が、かつてはこの神社の別当寺だったようです。御祭神は素戔嗚尊で 江戸時代中期の創建と伝えられ、旧東俣野村の鎮守として崇敬されてきました。

境内には、江戸時代に造られた庚申塔群や地神塔、石祠が並んでいます。これらは、かつての村の人々の民間信仰や生活の様子を今に伝える貴重な石造物とのこと。時代を経た狛犬もいい味出しています。

社殿から100mほど先にある鳥居の脇、「鎌倉街道西の道の説明板」が立っています。西の道とも上の道とも言われるこの道は、鎌倉と地方を結ぶ重要街道の一つで、「新田軍が鎌倉攻略に進撃した道」と伝えられ、歴史ある古道であるとあります。新田義貞が通った道、歴史の重みを感じます。

八坂神社
鎌倉街道西の道の説明板
新田軍進撃の道

境川と並行して、畑の中を進みます。この辺りは農園が点在しており、今はいちご狩り真っ盛りで多くの観光客が訪れていました。国道一号線に向かって進むとバイパスの手前、交差点横に「石仏や庚申塔が6塔」並んでいる大きな祠がありました。石仏には元禄年間の文字が刻まれているのが読み取れます。

「藤沢バイパス出口」を過ぎ、国道一号線、「東海道」を横断して藤沢方面へ進めば「鉄砲宿」。以前、東海道の旧街道歩きで訪れた場所。真っすぐ進むと右手に時宗の総本山、遊行寺ですが今日は左の住宅街の方へ進みます。

石仏や庚申塔が6塔
藤沢バイパス出口

「鉄砲宿」とありますが宿場ではありません。江戸時代、付近の影取池に住んでいた巨大な大蛇を、鉄砲の名手が退治し、そのままこの地に住み着いたことからついた名であるとのことです。

東海道
東海道 鉄砲宿

アップダウンが激しい住宅街の中を通る道を15分くらい進むと川沿いの道にでました。大通りに出て先がスーパーヤオコー、もう少し歩けば「柄沢神社」に到着です。

1193年、源頼朝が「那須野の巻狩」に向かう途中にこの地に立ち寄り、参拝したと伝えられている源頼朝ゆかりの伝説がある神社。この出来事をきっかけに、鎌倉武士たちの間で篤く信仰されるようになり、江戸時代にはこの地の領主であった旗本・大久保氏からも崇敬を受けました。

御祭神は、日本の総氏神である天照皇大神と、第六代天皇である孝安天皇が祀られています。境内には鐘楼があり、神仏分離以前の風景を見ることができます。

柄沢神社 鳥居
神仏習合の名残 鐘楼
柄沢神社 拝殿

住宅街を進むと県道に出て、さらに先の横浜藤沢線を渡ります。ここまでくると「道路標識にも鎌倉と大船の文字」が頻繁に登場します。左手高台へ続く階段が見えてきました。

道路標識にも鎌倉と大船の文字
慈眼寺への階段

地元では「渡内の観音様」として親しまれている「慈眼寺」、非常に歴史が深く、見どころの多いお寺。階段を上ると現れる山門の柱には、見事な「龍の透かし彫り」が施されています。

玉縄北条氏ゆかりの歴史があり、創建は戦国時代の天文年間。開基は小田原北条氏の一族で、玉縄城の3代城主であった北条綱成によって開かれました。綱成は「黄備え(きぞなえ)」の勇将として知られる武将です。

山門 龍の透かし掘り
慈眼寺 本堂

本尊の十一面観世音菩薩立像は鎌倉時代後期の作とされる貴重な仏像で、藤沢市の重要文化財に指定されています。かつて江の島にあった「江島寺に伝わっていた鐘」があり、これも市の重要文化財。1629年の銘があり、歴史の荒波を越えてここに伝わっています。

境内の最大の見どころの一つが、藤沢市の天然記念物に指定されている樹齢300年以上の「混生樹」です。モチノキ、タブノキ、スダジイという異なる3種類の樹木(計8株)が、根元で複雑に絡み合い、まるで一本の巨大な木のようになっている不思議な姿を見ることができます。

江島寺に伝わっていた鐘
樹齢300年以上の「混生樹」

県道から住宅街の中を進むと「日枝神社」へ続く階段です。御祭神は大山咋神、創建の年代は詳らかではありませんが、古くから渡内村の鎮守としてこの地に祀られてきました。先ほどの「慈眼寺」がこの神社の別当寺をしていたそうです。

境内には「3つの石の祠」が祀られています。左が壷井三社大権現で源頼義・義家父子の二人に加えて徳川家康の分霊を祀った祠とのこと。今も大切に守られていました。

日枝神社へ続く階段
日枝神社 拝殿
日枝神社 石の祠

少し寄り道となりますが、もう一か所玉縄北条氏ゆかりの浄土宗「二伝寺」を訪ねたいと思います。二伝寺は、初代玉縄城主北条氏時(北条早雲の子)の発願により開山、福原左衛門忠重の尽力があったとあります。

玉縄城から尾根続きで地域で一番高いところにあり、旧鎌倉街道に沿っていたので、玉縄城の砦の役割も担っていたようです。二伝寺とは、大本山光明寺に伝わる『本山伝』が紛失した時に、写しの伝書があったので二伝寺になったと伝えられています

境内山頂には坂東平氏の始祖と言われている平良文の塚があります。良文は桓武天皇の四代あと、平高望の五男、東下りしてこちらの村岡城に居を構え、村岡五郎と称し後に鎮守将軍に任ぜられています。

二伝寺 山門
二伝寺 本堂

街道へ戻り続いて村岡城址公園方面に進み先を右に入ると曹洞宗の「長福寺」です。戦国時代、この渡内エリアは玉縄城の有力な支城や武家屋敷が並ぶ「城下町」のような役割を果たしており、長福寺もその歴史の中に位置づけられています。

広い境内には緑豊かな永代供養墓がありました。墓じまいや子供に迷惑をかけたくないなどお墓ではなく永代供養や樹木葬など望まれる方も増えているようですね。私もお墓はどこか静かな場所のある納骨堂でも良いかな~なんて考える歳になってきました。

長福寺 境内
長福寺 本堂

街道は住宅街を抜けて東海道本線が見えてきました。左手には広大な敷地の「湘南アイパーク」、武田薬品工業が研究所を開放して設立され、産官学連携による創薬やヘルスケアのオープンイノベーションを促進している施設です。

東海道本線の高架下をくぐって反対側に出ると小高い丘が見えてきます。雑木林へ続く未舗装の小路を登っていくと木製の「鎌倉古道の案内板」が頑張って残ってました。先には鎌倉古道上の道の石碑もあります。

湘南アイパーク
鎌倉古道の案内板

そして山中にひっそり佇む「御霊神社」に到着して、ひと安心。御祭神は鎌倉権五郎景政、創建は平安時代といわれています。坂東平氏の一族であり、この村岡の地に拠点を置いた「村岡氏」や、その子孫である鎌倉景政を祀っています。

景政は、後三年の役で目を射抜かれながらも奮戦した武士の鑑とされる人物。その矢を抜いてこの地に突き刺したところ、そこから竹(矢竹)が生えてきたという伝説があり、景政の武勇を今に伝える「折笹矢竹稲荷」が祀られています。

御霊神社 拝殿
折笹矢竹稲荷 七面宮

これまでに登場した飯田氏、俣野氏などは、すべてこの村岡氏の流れを汲む一族です。つまり、この御霊神社は、彼ら「鎌倉武士団」の心のふるさととも言える場所なのです。

鳥居の脇には、藤沢市の天然記念物にも指定されている幹回りが5.21米の大きなタブノキがあり、長い年月この地を見守ってきた力強さを感じることができます。

御霊神社への長い階段
御霊神社 タブノキ
御霊神社 鳥居と参道

柏尾川へ向かう途中に「兜松」があります。奥州で起きた「後三年の役」で大活躍した鎌倉権五郎景政が、戦いを終えて帰還した際、自身を勝利へ導いてくれた御霊神社に戦勝報告のため参拝。その際、戦勝を記念して、神社の裏手にあった岩の上の松の根元に自分の兜を埋めたと伝えられているのが「兜松」の由来です。

また、この付近は新田義貞の鎌倉攻めの中心地で激戦地であったとあります。残念ながら工事中で、中に入ることはできなくて遠くから眺めるだけとなりました。

かぶと松の碑
柏尾川

柏尾川を渡って住宅街を少し進めば高野山真言宗「泉光院」、先ほど訪ねた 御霊神社の「別当寺」です。
伝承では、源頼朝が鎌倉に幕府を開く際、この地を訪れて休憩したとも言われています。

また、御霊神社の祭神である鎌倉景政の先祖、村岡五郎良文の居館跡に関連する寺院としても知られています。

泉光院 山門
泉光院 本堂

すぐ先には泉光院が管理する「持ち分」の神社だった「天満宮」があり、正月に泉光院から「御幣」を受けて祀るという古い習慣が続いているそうです。神仏分離を経てもなお、お寺と神社の強い結びつきが残っている珍しい例ですね。

境内には、寛文10年という非常に古い銘が入った庚申塔があります。これは鎌倉市の有形民俗文化財に指定されており、この地域の江戸時代初期の信仰の姿を今に伝える貴重な資料です。

天満宮 鳥居
天満宮 拝殿

本日は20km越えのロングウォーク、前方にはゴールの湘南モノレールも見えてきました。JRの大船工場跡の広大な敷地を右手に見ながら歩くと、最後のチェックポイント「泣塔」です。

鎌倉時代末期、攻め込んできた新田義貞の武将堀口貞満を赤橋守時が迎え撃ちます。この洲崎合戦で敗れた赤橋守時、北条守時らが、この地で切腹。その後鎌倉幕府の武士たちを弔うために供養塔が建立されたそうです。

昔から「この塔を動かそうとすると災いが起きる」や「夜に泣き声が聞こえる」といった伝説が語り継がれてきました。そんな、こんなで泣塔とよばれるようになったとか。昭和40年代、 当時、国鉄(現JR)の工場を拡張する際、この塔が邪魔になり移動させようとしました。しかし、移動に関わった作業員が相次いで病気になったり、不慮の事故が起きたりしたと言われています。

鎌倉時代中期頃の作とされる立派な宝篋印塔は鎌倉市の重要文化財に指定されています。現在崩壊の危険性があるため工事中のようです。木々も伐採されて丸裸状態、で近くで見ることはできませんでした。

崩壊を防ぐ工事が無事終わり、引き続き大切に祀られて供養が続けられることを祈ります。

泣塔 左の宝篋印塔は囲われていました
湘南モノレール

ようやくゴールの湘南モノレール、湘南深沢駅に到着。大船から江ノ島をつなぐモノレールですが、今回乗るのは初めて。3つ先の大船まで行ってJRで東京方面に向かいたいと思います。

次回は、こちら湘南深沢から鎌倉は鶴岡八幡宮へ向かいます。化粧坂を超えていよいよ鎌倉へ。

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