鎌倉街道 街道を歩く その8 歴史を訪ねる シニアの健康ウォーキング 湘南深沢→鎌倉

鎌倉街道 街道を歩く その8 歴史を訪ねる シニアの健康ウォーキング 湘南深沢→鎌倉 街道ウォーク
Photo by ゆう
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鎌倉街道 その8 湘南深沢→鎌倉

鎌倉街道その8は、湘南深沢→鎌倉
距離は18,7Km、所要時間5:05時間 22,162歩、消費カロリー972kcal

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※スマホでも読みやすいように、改行が多くなっております。PCでは少々見づらくなっていることをご了承願います。

湘南深沢→扇ガ谷

所沢からスタートした鎌倉街道歩き、今日は「いざ鎌倉!」いよいよ化粧坂を越えて八幡宮をめざします。JR大船駅から湘南モノレールで湘南深沢へ、「大船の観音」さまが優しいお顔でお見送りしてくれました。

モノレールの高架下を歩いていくと左手に「洲崎古戦場の碑」があります。新田義貞の鎌倉攻め、迎え撃つのは幕府最後の執権赤橋守時。守時は妹が足利尊氏の妻であったため、幕府内で裏切りを疑われていました。忠義を示すため自ら志願、決死の覚悟でこの戦いに挑みますが敗北。

大船観音
湘南モノレール 湘南深沢
洲崎古戦場の碑

負けたとはいえ、守時は一昼夜の間に65回も突撃を繰り返したとあります、あっぱれですね。因みに大河ドラマ「太平記」では妹役は、あの科捜研の女、沢口靖子さん、尊氏は真田広之さんでした。

太平記
鎌倉時代末期、南北朝時代の動乱期を舞台に幕府を滅亡させ、建武政権に背いて室町幕府の初代将軍となった足利尊氏の生涯を描く。文化庁裁定申請中(2020年5月1日申請)

街道を少し戻り住宅街へ入っていくと右手に茅葺の素朴ながらも存在感抜群の山門が見えてきます。臨済宗円覚寺派の寺「大慶寺」、室町期には関東十刹に列せられていました。

広大な境内には、「樹齢700年ビャクシンの巨木」が2本、今も青々と葉を茂らせている姿は堂々たるもの。こちらは市の天然記念物、隣の石造りの宝塔は有形文化財となっていす。この巨木、北条氏の最期を見届けていたのかも。

大慶寺 山門
大慶寺 本堂
樹齢700年ビャクシンの巨木

向かいには参道、先の鳥居を進み階段を登ります。「駒形神社」は大慶寺の守護神として、また寺分村の鎮守として祀られてきました。 御祭神は豊受大神、食物や産業の神様です。村人の豊作と日々の平安を願って手を合わせていた光景が目に浮かびますね。

お隣には真言宗寺院、「東光寺」の山門、本堂前には弘法大師さまがいらっしゃいます。奥には、相模国十三番札所の弘法大師坐像も。

駒形神社 参道 鳥居
駒形神社 拝殿
東光寺 本堂

街道を深沢小学校のグラウンド方向へ曲がると「梶原御霊神社」の社号標が見えてきます。このあたりの住所は梶原、前回も名前が出てきた、あの「目を射抜かれても戦った」勇者鎌倉権五郎景政がご祭神です。

梶原氏にとって景政は偉大な先祖であり、彼を祀ることは自分たちのアイデンティティを確認することでもありました。石橋山の戦いで頼朝を救った冷徹な懐刀として知られる梶原景時も、出陣の前には必ずここを参拝し、一族の結束を誓ったと言われています。

鎌倉殿の13人
平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎなかった。1180年、頼朝が挙兵するとこの無謀な大ばくちに乗った北条義時は頼朝第一の側近となり、平家を打ち破った鎌倉幕府のかじとりを担う。やがて三代...ReadMore

鎌倉殿の13人の景時役は中村獅童さんでしたね。当時の東国武士には珍しく和歌を愛する教養人だったそうです。坂を上った少し高い場所に拝殿、さらに階段を上っていくと社殿が木々に囲まれ山肌に鎮座する価値あるロケーション、身が引き締まる思いです。

梶原御霊神社 拝殿
梶原御霊神社 社殿への階段
梶原御霊神社 山頂の社殿

ここから、鎌倉中央公園、源氏山公園方面に向かって上り坂がはじまります。右手の深沢中学校前には「寺分大工谷(だいくがやつ)由来」の案内板。頼朝の招きにより、京都や周辺地域から優秀な大工を呼び寄せ、この谷に住まわせたのが始まり。 建長寺や円覚寺といった「鎌倉五山」の造営・修繕を一手に引き受けていました。

また、この「寺分」という地名。これは、先ほど訪ねた大慶寺がかつて持っていた巨大な寺領を指す「大慶寺の寺分」からきているとのこと。 一帯すべてがこのお寺の敷地や領地だったと考えると、かつてどれほどの権威を誇っていたかが想像できます。

住所は寺分 一帯が大慶寺の寺領だった
山の上ロータリー

住宅街の中、坂道を上ること30分弱、「山の上ロータリー」に到着。ここは昭和40年代に開発された「鎌倉梶原山住宅地」の頂上付近に位置します。おしゃれな景観が続く分譲地は情緒があり、ドラマやCMのロケ地として使われることもあるそうです。

フレンチレストランやビストロも登場し始めて坂を下っていくと源氏山公園への案内板、道が細くて少々不安ですが右方向へ。かつての武士たちが駆け抜けた古道の雰囲気が残る自然豊かな尾根道を進みます。

鎌倉梶原山住宅地
右が源氏山公園方面

目の前が開けて左手に「葛原岡神社」の鳥居が現われました。ご祭神は倒幕に散った公家「日野俊基卿」、 後醍醐天皇の側近として鎌倉幕府を倒すために奔走しました。幼い頃から学問の道に優れ、大変有能な公家でしたが計画が漏れ、この地で処刑されてしまいました。

葛原岡神社
葛原岡神社
葛原岡神社

現在は鎌倉屈指の縁結びスポットとしても非常に人気があり男石・女石とよばれる境内にある二つの石を結ぶ「縁結び石」に、社務所で授かる五円玉を通した赤い糸を結ぶと良縁に恵まれると言われています。

女性は右の男石に、男性は左側の女石に、人間関係などの絆結びは中央にとあり、多くの五円玉が結ばれていました。「魔去る石」と言って、魔が去るように、盃を石に投げつけて割る厄払いの儀式も人気です。

葛原岡神社 男石 女石
葛原岡神社 魔去る石

神社の入り口脇には「日野俊基卿墓」がありますからお参りしていきましょう。墓所として建っているのは、歴史を感じさせる立派な宝篋印塔。周囲は石の柵で囲われ、ひっそりとしながらも威厳があります。

彼はこの場所で処刑されましたが、その堂々とした死に様は、当時の武士たちにも感銘を与えたと言われています。処刑されたわずか1年後(1333年)、新田義貞の攻撃によって鎌倉幕府は滅亡。彼があと1年生き延びていれば・・・と誰もが思ったでしょうね。

日野俊基卿墓
日野俊基卿墓
日野俊基卿墓

ここで源氏山公園方面から少し逸れて寄り道です。急な坂道を下っていくと洞穴と鳥居が登場、「 銭洗弁財天 宇賀福神社」です。神社の入り口は、岩壁をくり抜いたトンネルになっていて中はヒンヤリ、常に水が流れる音が響き、周囲の緑と相まって、鎌倉らしい神秘的な雰囲気に包まれています。

創建の由来は、源頼朝の夢に「この地に湧き出す水で神仏を供養すれば、天下は泰平になる」という宇賀福神(蛇の体に人の頭を持つ神)のお告げがあったとのことです。

頼朝がその通りに湧き水を探し当て、社を建てたのが始まり。その後、鎌倉幕府5代執権・北条時頼が、ここの水で一族の繁栄を願ってお金を洗ったことが、現在の「銭洗い」の風習に繋がったと言われています。

銭洗弁財天 宇賀福神社
銭洗弁財天 宇賀福神社
銭洗弁財天 社務所

奥宮の中にある湧き水は「鎌倉五名水」の一つに数えられています。 社務所で献灯用のロウソクと線香(セットで200円)を購入し、ザルを借ります。奥宮で、ザルにお金(硬貨でも紙幣でも可)を入れ、柄杓で3回ほど水をかけて洗います。 洗ったお金は「清められたお金」となり、それを使うことで福が巡ってくると信じられています。

弁財天さんのお使い、蛇の大好物と言われる卵も奉納用として販売されていました。金運を招くグッズも盛りだくさん、人はお金にまつわることには弱いですね。我が家もしっかりお札を洗って小判も買って参拝終了です。

銭洗弁財天 宇賀福神社 奥宮
馴染みが深い諭吉さまをお清め
財部に入れる小判と御朱印

さあ、急坂ですが登り返して源氏山公園の象徴であり、鎌倉の街を見下ろすように鎮座する「源頼朝像」に向かいます。この像は、鎌倉幕府が開かれてから800年という節目を記念して、昭和55年(1980年)に建てられました。

この場所は、かつて頼朝の先祖である源頼義・義家親子が、奥州(東北)へ出陣する際に白旗を立てて戦勝を祈願したという伝説があり、「白旗山(しらはたやま)」とも呼ばれていました。源氏にとっての「聖地」です。

源頼朝像
化粧坂への道

ここから「化粧坂(けわいざか)切通」を抜ければ、いよいよ鎌倉。この切通は、鎌倉の北西の入り口であり、武蔵国へと続く重要な街道の起点。あえて山を削り、馬一頭が通るのがやっとという狭さと急勾配に仕立てられている天然の要塞です。先ほど歩いてきた「洲崎古戦場」で勝利した新田義貞の軍勢の前に立ちふさがったのがこの化粧坂。

新田軍はこの坂を突破しようと猛烈に攻め立てましたが、幕府軍の守りは固く、数日間にわたって激しい戦闘が繰り広げられました。結局、この坂が落ちなかったため、義貞は軍を稲村ヶ崎へと転じ、海に黄金の剣を投げ入れて潮を引かせた……という有名な伝説に繋がっていきます。

鎌倉時代そのままの岩場、岩が露出しており、非常に滑りやすくなっています。登山用のシューズではなくランニングシューズだったので滑って転倒しないかと、非常に怖かったです。

化粧坂 切通
化粧坂 切通
化粧坂碑

左手の「化粧坂碑」を過ぎて下りは緩くなりましたが細い道がまだ続きます。右手の壁面に見えてきたのが「景清土牢」、ここに幽閉されたと伝わる平家方の猛将、伝説の勇者悪七兵衛景清。

平家が滅亡した後も、景清は源頼朝への復讐を誓い、何度も暗殺を企てたとされ、この狭く湿った土牢に閉じ込められました。伝説によれば、景清は「源氏の施しは受けぬ」と、差し出された食事を一切拒否し、この牢の中で餓死したと言われています。

先へ進むと突き当り丁字路となり左方向が水の寺としての顔を持つ「海蔵寺」、鎌倉五名水の一つ「底脱の井」をはじめ、水にまつわる伝説が豊かです。

景清土牢
海蔵寺参道

門前にあるのが鎌倉十井のひとつ「底脱の井」。安達千代野という尼僧が、桶で水を運んでいた際に底が抜け、それまで水面に映っていた満月が見えなくなってしまいます。この時心に宿っていた煩悩が氷解、「心もまた底が抜けるように悟りを開いた」というエピソードから名付けられたそうです。

海蔵寺 山門
海蔵寺 底脱の井
海蔵寺 十六井戸

また、本堂の裏手にある岩屋の中に、整然と並んだ16の丸い井戸。「十六井戸」は弘法大師(空海)が掘ったという伝説もあり、暗闇の中に水が湛えられたその光景は、どこか異世界の儀式のような神秘性を帯びています。こちらは拝観料(100円)が必要となりますので忘れずに。

海蔵寺は手入れが行き届いた庭園も見事、本堂裏に広がる裏山を借景とした回遊式庭園には清らかな水も流れており、四季の花々が咲き乱れる鎌倉を代表する風景として人気です。

海蔵寺 広い境内
海蔵寺 本堂
海蔵寺 本堂裏の庭園

扇ガ谷→鎌倉駅

来た道を戻り横須賀線の扇ガ谷ガードをくぐり、向こう側にあるのが「岩船地蔵堂」。この地蔵堂の本尊は、大姫の守り本尊であったと伝えられており、彼女の魂を慰めるために建てられたと言われています。

源頼朝の長女、大姫は幼い頃、木曽義仲の息子である木曽義高と婚約していました。しかし、父・頼朝と義仲が対立。頼朝は義高を殺害してしまいます。これを知った大姫は心に深い傷を負い、以来、笑うこともなく、若くして亡くなるまで義高を想い続けました。戦国の世の悲しい物語です。

ガードに戻り横須賀線沿いに歩きます。すぐ右手には「智岸寺稲荷」、岩を削った中に祠が祀られています。その名の通り、かつてここには智岸寺という大きなお寺があったそうです。

岩船地蔵堂
智岸寺稲荷
智岸寺稲荷

お隣は鎌倉に現存する唯一の尼寺「英勝寺」。徳川家康が最も信頼した側室の一人、お勝の方(英勝院)が開きました。お勝の方の祖先は太田道灌、また水戸藩主・徳川頼房(家康の十一男)の養母でもありました。そのため、代々の住持は水戸徳川家の姫君が務めるという、極めて格式高い「貴族的な尼寺」です。

徳川家ゆかりの寺院らしく、境内に一歩足を踏み入れると、江戸時代の華やかで洗練された意匠が目に飛び込んできます。仏殿(重要文化財)は徳川家光の寄進によるもので、内部の天井には豪華な装飾、そして軒にも十二支の彫刻が施されています。正面の小窓を開けると本尊の阿弥陀三尊を拝することができます。

英勝寺 山門
英勝寺 仏殿
英勝寺 阿弥陀三尊

反りがなく直線的な屋根の山門にも精巧な彫刻が施されています。上層内には阿弥陀如来が安置されています。扁額は後水尾上皇宸筆とあり水戸徳川家の財力と美意識を今に伝えています。

境内の竹林は静謐な雰囲気があり、風に揺れる竹の音だけが響く空間は、歩き疲れた心に深い安らぎを与えてくれます。街道に出ると、「総門」の横に「太田道灌の屋敷跡碑」があります。

英勝寺 竹林
英勝寺 総門
太田道灌の屋敷跡碑

お隣は、扇ヶ谷のしっとりとした空気の中に佇む亀谷山「寿福寺」。正式には「寿福金剛利生禅寺」といい、鎌倉五山の第三位に列せられる名刹。総門をくぐると、鎌倉で最も美しいと言われる真っ直ぐに伸びた石畳の参道が現れます。驚くほど静かで、これまでのウォーキングの疲れがすっと引いていくような、浄化の力を感じられます。

源頼朝が亡くなった翌年、妻の北条政子が頼朝の菩提を弔うために、臨済宗の開祖、栄西を招いて建立しました。もともと頼朝の父・源義朝の旧邸があった場所であり、源氏にとって非常にゆかりの深い聖地。

寿福寺 總門
寿福寺 美しい参道
寿福寺 中門 

本堂の裏手にある鎌倉特有の横穴式墓所「やぐら」には、二人の重要人物が眠っています。鎌倉の女傑として幕府を支え抜いた北条政子。もう一人は、頼朝の次男であり三代将軍。鶴岡八幡宮で暗殺された非業の死を遂げた歌人将軍「源実朝」です。親子二人が隣り合うようにして暗い「やぐら」の中に佇む姿は、源氏という血筋が途絶えた歴史の重みを無言で語りかけてきます。

寿福寺 本堂
寿福寺 北条政子墓
北条政子の右隣が実朝墓

お隣の「八坂神社」は、もともとは隣接する寿福寺の鎮守として祀られていました。 鎌倉のお寺の多くは、火災や災厄から守るために神様を併設する「神仏習合」の形をとっています。ここもまた、北条政子が寿福寺を建てた際に、その繁栄と安寧を願って祀られたのが始まりと言われています。

横須賀線の踏切を渡って横大路を進めばいよいよ「鶴岡八幡宮」、左手に川喜多映画記念館を見て進めば、小町通りに突き当たりますので左折。見えてくる小さな赤い鳥居が「紅葉稲荷社」。その名の通り、秋になると周囲の楓が見事に色付き、社殿の朱色と溶け合うような絶景を作り出します。

先へ進み「三の鳥居」を目指します。由比ガ浜から続く若宮大路には、一の鳥居(由比ガ浜近く)、二の鳥居(若宮大路の入り口)と続き、この「三の鳥居」が最後にして最大の門となります。ここをくぐれば、そこはもう源頼朝が築いた「神の領域」です。

八坂神社
紅葉稲荷社
三の鳥居

鳥居のすぐ先に目を向けると、急勾配の「太鼓橋」と、左右に広がる源平池が見えます。右側が「源氏池」で島が3つ(産まれる)、左側が「平家池」で島が4つ(死ぬ)配置されています。北条政子が作らせたと伝わるこの池は、文字通り「源氏の繁栄」と「平家の滅亡」を地形に刻み込んだ、極めて政治的で宗教的な空間演出です。

太鼓橋
左は平家池
長くて広い参道

頼朝の先祖である源頼義が、由比ガ浜辺りに勧請したのが始まり。頼朝は鎌倉に入るとすぐ、現在の山裾の目立つ場所へと遷し、ここを起点に鎌倉の街を設計しました。八幡宮から海へと真っ直ぐ伸びる「若宮大路」は、この神社を頂点とした完璧な対称性を持ち、宗教的な権威と軍事的な統制を象徴しています。

御祭神は、武運の神として崇められた「八幡神(応神天皇・比売神・神功皇后)」です。源氏の氏神として、頼朝は戦勝祈願だけでなく、幕府の安泰をここで祈り続けました。

鶴岡八幡宮 大石段
鶴岡八幡宮 上宮

「大銀杏」は三代将軍・源実朝が暗殺された際に、犯人の公暁が隠れていたという伝説を持つ巨木、2010年に倒伏しましたが、現在は力強く「ひこばえ」が育っています。石段を登りきった先にあるのが本宮。楼門に掲げられた額の八の字、神の使いとされている二羽の鳩で表現されています。

隣には「白旗神社」、頼朝公、実朝公が祀られており黒塗りの社殿が高貴な雰囲気を醸し出しています。源氏池を囲うようにある「神苑ぼたん庭園」がこの時期は開園しており多くの種類の牡丹を見ることが出来ました。

鶴岡八幡宮 大銀杏
鶴岡八幡宮 白旗神社
鶴岡八幡宮 神苑ぼたん庭園

鎌倉幕府、最初の拠点、「大蔵幕府跡」に向かいます。源頼朝が鎌倉に入り、最初に政務を執るための邸宅を構えたのが、この「大蔵(西御門)」の地でした。 この付近に大きな倉庫(大蔵)があったことから、この地名で呼ばれるようになりました。現在は住宅街の中に石碑が立つのみで、当時の建物は残っていません。

「白旗神社」は源氏の軍旗が「白旗」であったことから、頼朝を慕う人々によってこの名で呼ばれるようになりました。御祭神は源頼朝公、かつてここには頼朝の持仏堂であり、後に菩提寺となった「法華堂」がありました。

大蔵幕府跡
白旗神社

神社脇にある急な階段を上った先に、これまで何度も話題にのぼった源頼朝の墓があります。石段を登った先にある広場と、そこに佇む源頼朝の墓所を含めた一帯が「史跡法華堂跡」です。

鎌倉に入った頼朝は、自身の信仰する観世音菩薩を祀るための「持仏堂(じぶつどう)」をこの大蔵の地に建てました。かつては立派な堂宇が建っていましたが、現在は礎石が残るのみの静かな広場となっています。

広場の中央、石柵に囲まれて立つ高さ約186cmの五層の石塔が、頼朝の墓と伝えられています。簡素ながらも揺るぎない佇まいは、武家の棟梁の最期にふさわしい威厳を放っています。

源頼朝の墓への階段
源頼朝の墓

近年の発掘調査により、頼朝の墓の東側には、二代執権「北条義時の法華堂」もあったことが判明しました。頼朝を支え、幕府を盤石にした義時が、死後も主君である頼朝の隣に並んで葬られたことは興味深いです。奥には大江広元、毛利季光、島津忠久の供養墓、三浦一族のやぐらがあります。

法華堂跡への階段
義時 法華堂跡
大江広元の供養墓

若宮大路へ出ると、道の真ん中に一段高く築かれた、松と桜の並木道が真っ直ぐに海へと伸びています。それが、鎌倉で最も格式高い参道「段葛(だんかづら)」です。源頼朝は妻・政子の懐妊に際し、その安産を祈願してこの参道を整備しました。車道よりも一段高い場所を歩くことで、喧騒を離れ、神域へと向かう特別な高揚感を味わえます。

「二の鳥居」は鎌倉のメインストリートである段葛の起点であり、由比ガ浜から続く長い参道の重要な結節点です。 鎌倉最大級の石造鳥居で、現在の鳥居は、寛文8年(1668年)に徳川四代将軍・徳川家綱によって寄進された、歴史ある石造りの鳥居です。

段葛(だんかづら)
段葛(だんかづら)
二の鳥居

鎌倉と言えば鳩サブレ―、黄色の袋でおなじみですね。デパートでも買える有名なお菓子ですが、明治27年創業の豊島屋本店がこちら。鶴岡八幡宮を崇敬していた初代が八幡宮本殿の掲額「八」の字が鳩の抱き合わせでなことから、このお菓子を鳩の形にし「鳩サブレー」と名付けたそうです。あのバター風味がクセになるんです、本店限定パッケージの4枚セットを購入して帰ります。

豊島屋 本店
本店限定 鳩サブレ―セット

小町通りから鎌倉駅に向かいます。小町通りは鳥居から八幡宮まで若宮大路と並行して伸びる、約360メートルの商店街。 焼きたてのお煎餅、しらすの揚げ物、抹茶スイーツ、そして地ビール。五感を刺激する誘惑がどこまでも続きます。SNS映えする魅力的な風景が広がります。


鎌倉駅は明治22年(1889年)、横須賀線の開通と共に誕生しました。 かつての旧駅舎は赤い三角屋根が特徴的で、鎌倉のシンボルでした。現在の駅舎にもその面影や時計台が継承されており、どこか懐かしい品格を漂わせています。JRのホームの端には、日本で最も愛されるローカル線の一つ、江ノ電の乗り場があります。

小町通り入口
鎌倉駅

所沢を出発して8回、無事鎌倉駅に到達できました。敵と戦う心配もいらない平和なウォーキングに感謝して楽しい道のりを満喫。約700年前には新田義貞ら関東武士が命懸けでこの道を行軍したかと思うと、感慨もひとしおです。

鎌倉は頼朝の鎌倉幕府から北条氏、足利氏、南北朝時代へと歴史にまつわる見どころ満載の地。まだまだ見るべき神社仏閣等たくさんあります。そこで、次回は特別編として鎌倉観光を行いたいと思います。北鎌倉から鎌倉、そして長谷から稲村ケ崎、腰越あたりまで回ることができればと思います。鎌倉街道編、あと少しお付き合い下さい。

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