モーツァルトへの旅 91 最終回 ウィーンⅢ 父の記録

モーツァルトへの旅 91 最終回 ウィーンⅢ 父の記録 老後の生きがい

父の遺品を整理していたところ、定年後に旅した記録が書斎から出て来ました。1991年と2000年ですから30年以上前の話。モーツァルトやバッハ、絵画が大好きだった父は独学でドイツ語も学び、独りヨーロッパへ旅立ちました。

父の文章、撮り下ろし写真やスケッチ、フリーのイメージ写真等を盛り込み、アナログで残された旅の記録をデジタルデータとして完成させ残してあげたいと思います。

1991年に旅した記録、モーツアルトの旅は、その1~その5。2000年に旅したバッハ没後250周年、中・東欧周遊の旅は、その1~その4、全9回でご紹介しようと思います。今回はモーツァルトその5、最終回です。

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モーツァルトの旅 父の記録 その5

16.午後の市街地と夕暮れの公園散策

ホテルに戻り、午前中に画いたパステルにフィキサチーフをかけ、絵具を固定しておく。相当お腹が空いてしまったがパンとジュース、リンゴを食べると少し元気をとり戻した。しばらく休んだ後、スケッチブック、カバンなどは部屋に置いて身軽にもう一度街へ出ることにする。

身軽になって元気をとり戻し、再びグラーベンへ行く。明日、どうしてもおみやげを買っておかなければならないのと、朝、一番にカメラの電池を買わなければならないので下見をする。 ペスト記念柱のそばのカメラ店に日本製のカメラが沢山並んでいるのを確かめておく。

おみやげのなかで、ひとつむづかしいものがあった、次男の嫁にハンドバックを買うことにしていたからである。また、家内へのみやげもまだ決めていないのだ。

17:30 カフェテラス CAFE DEL EUROP に空席をみつけ白い椅子に腰を降ろす。少し早いが夕食にと思いメニューをみる、ここのメニューは写真入りなので私のような文盲には大変つごうがよい、Espresso ( 肉料理、野菜、パン )とビールをオーダーすると黒い髪のウェイトレスがにっこりうなづく。

やがて、食事をしていると、近くの教会の鐘の音が響いてくる、すぐ近くの街頭でチェロを弾いているのが聴こえてくる、曲はバッハの無伴奏チェロ 組曲だ。 雑踏の音も絶えないが、 少し離れたところでもヴァイオリンを演奏しているようだ、食事をしながら街頭に目を移すと急ぎ足の人はほとんどいない、それぞれの国の言葉でそれぞれに感じながら歩いているようだ。

ここは世界のウィーンなのだ、平和な国なのだ、そんな思いをしながら、コールドティーを飲むと時間がかなり経過したようだった。

歩きはじめてしばらくすると、 ほんのしばらくだったが通り雨が肌に触れた、ライフィンガー氏が言っていたとおりの雨である、軒先を借りる必要もない雨だ。

18:10頃 U1,U4を乗り継いでシュタットパークへ行く、日曜日の夕暮れの公園内はまだ人が多いようだった。公園南入口から入っていくとクーアサロンの建物がある、と、まもなくアーチを背にヴァイオリンを弾くヨハンシュトラウス像がある (大阪花の万国博覧会オーストリア庭園にレプリカがあった)、レハールの胸像もみられる、大きな池を囲むように散策道が配置されている、小鳥たちが水浴をしている、木立の茂みは自然林のようで年輪を刻んだ老木も多い。

シュタットパーク
ヨハンシュトラウス像

シューベルト像がみえてくる、シューベルトさん有難う、数多くの名曲を遺していただいて、と言いたくなってくる。こういったモニュメントを飾る花壇は実に手入れがよい、そして、園内は静かで綺麗である。しばらく探したがブルックナー像は見当たらなかった。園内をひとまわりして戻り、少し離れた一角にあるベートーヴェン像をみる、 彼の性格を表わすようにやや考え込んでいるが威厳もある、数ある彼の像ではこの像が一番立派であるとのことである。

ベートーベン像

やがてホテルへ帰ると時刻は19:30 、かなり歩いた一日だった。 夜11:45 (日本時間 06:45) 久しぶりに次男の家へ電話をすると朝の準備をしているところだった、嫁、孫 (良樹) の元気な声も聴く。ウィーンでの二日めも無事に旅をすることができたことに感謝する。

17.ウィーン市街フリーウォーキング

7月22日(月)晴れ、06:00(日本時間 13:00) に家内へ電話をかけ今日の予定について話す、 06:30 会社へも元気で旅を続けている旨電話をかけておく。08:20 ホテルを出発、今日はウィーン市街を自由に歩いてみることにする。

まずグラーベンのカメラ店でカメラのバッテリーを取り替え、早速、 前日撮影できなかったところを含めて撮影と散策をつづけることにする。

クラーベンの繁華街は朝から賑わっている、商品を搬入する車も多い、ベスト記念柱が朝の光りをうけて眩しいばかりだ。 その近くに日本ではみられない地下公衆トイレがある、HerrenとDamenとを間違わないように利用する。

グラーベン繁華街

朝のシュテファンドームは逆光のなかに世紀の時間を刻む、シュテファン寺院の裏手から狭い石畳の路地を少し行くと「フィガロハウス」がある。1784 から1787年までの3年間、モーツァルトはここでオペラ・フィガロの結婚を作曲し、17才のベートーヴェンがモーツァルトに会ったところといわれている。

残念ながら休館のため内部をみることができなかったが小綺麗な構えで当時を偲ばせてくれた。ドイツ人らしい若い2人も訪ねてきたが私と同じだった、ハウスの入口でその男性にシャッターを切って貰いDanke schön! とお礼をいう。

U1に乗って1区間、カールスプラッツ駅から表へ出て駅舎をみる。ウィーンの街に数多い世紀末様式のパピリオンである、オットー・ワグナーが設計したもののひとつである、優美な曲線のデザイン、屋根は緑色を基調に金色模様で装飾されているところがいかにもアールヌーボー様式らしい。

レッセル公園で休んでいる人が何人もいた。園地の樹葉に囲まれるようにブラームス像がある、彼もウィーンで活躍した一人だが渋い味わいの曲がいつも私たちを魅了させるのだ。

フィガロハウス
ブラームス像

これに続くカールス広場の正面にはカールⅥ世がペストの終息を祈願して建てたバロック様式の教会の丸屋根がみえる。右手の落ち着いた建物は工科大学だった。

やがて、お昼が近づいてきたのでもう一度ケルントナー通りへ戻り、カフエテラスの空席を探して昼食をとる。午後の散策はキュンストラーハウスとムジークフェライン (楽友協会)をみながらシュヴァルツェンベルク広場を経て、さらにコンツエルトハウス前からシュタットパークへ入る、ここは昨日みたのでモニュメントや園内の風景を撮影しながら急ぎ足で通り抜ける。

ウィーン川沿いにあるホテルヒルトン前から国電の陸橋を渡り、ウンガルガッセ 5番地にある「ベートーヴェンハウス」へと向う。 この家は1823年、第9交響曲の最後の仕上げを行ったところである。 残念ながらここでもフィガロハウスと同様に月曜休館のため、そのたたずまいをみるにとどまった。

18.中央墓地へ

かなり歩きどおしだったが元気をだして足を急ぐ、リンク沿いを外廻りの市電 2に乗ってシュヴァルツェンベルクプラッツまで戻り、明日の予定を繰り上げて中央墓地へ行くことにする。

シュヴァルツェンベルクプラッツから市電71系統に乗って約30分、 都心から東南 7kmのところに中央墓地がある。ガイドブックにはZentralfriedhof 2Torで下車するように書いてある、1Torは一つ手前だが広大な敷地を有する墓地なので楽聖たちが眠っている第32A区は2Torで下車する方が近いのだ。

13:50 市電を降りるとそこは墓地の正門前、人はまばらであった。正門から約200m入ったところに第32A区がある。まず、モーツァルトの記念碑がみられたがここには彼の墓碑はない。

資料によれば、モーツァルトは唯一人親類縁者の立ち会いもなしに最下等の共同墓穴に葬られ、その地は聖マルクト墓地であることは判っているものの、墓標も墓石も建てられなかったために、今日にいたっても埋葬位置は不明だといわれている。

モーツァルトの記念碑の少し後の左にベートーヴェン、右にはシューベルト、さらにその周りにブラームス、スッペ、ヨハン・シュトラウス (父)、 (子)、らの墓碑がある。

シューベルト ブラームス 墓碑

これらの記念碑や墓碑にはそれぞれ銘記や彫像があり、彼らの死を永遠に惜しむと同時に思慕の念を表しているようだ。 芝生と木立に囲まれ献花も絶えない。私はこれらの楽聖たちに対し限りない感謝と畏敬の念を捧げながら墓参を終えることにした。

中央墓地前から市電でふたたびシュヴァルツェンベルクプラッツへ戻ると時刻は15:50だった。今度はリンク内廻りの市電1に乗って、もう一度ゆっくり市街地をみることにする、20日の午後、バスで観光案内されたとき、ガイドさんが奨めたコースである。

72時間フリーパスはここでも威力?を発揮してくれる。市電1はシュテファン寺院をコンパスの中心にして時計方向に廻り、一周に要した時間は35分、この間、あの堂々とした国会議事堂やゴシック建築風の市庁舎、優美な姿のヴォティーフ教会、運河沿いの街並みなど、 そして、行き交う人々の表情をパノラマのようにアンコールしてくれるのだ。

17:00 リンク沿いを二周め少し進んだ国立オペラ座前で下車、ここからはケルントナー通りを歩いてショッピングに向うこととする。

ゲーテ像
モーツァルト立像

国立オペラ座を右手にみてリンク通りを少し歩くとゲーテ像がある。 ゲーテはモーツァルトより7歳先輩であるが、ゲーテ(1749~1832、独) の詩に作曲した唯一の声楽曲 「すみれ」 (KV476) が二人を結んでいることになる。この曲は愛らしい曲であるが、後に、歌曲の王として知られるシューベルトに少なからず影響を与えたものとみられている。

すぐ先の王宮公園にもモーツァルトの立像がある、ザルツブルグの立像よりもモーツァルトらしく、また、雰囲気がよくて好きである。さすがに像を仰ぐ人も多かった。

19.ショッピング

モーツァルトの少し先でも撮影をつづけてからケルントナー通りを歩いてショッピングに移る。もう、明日は帰国の日、ウィンドゥショッピングでは済まされなくなってきた。

家族へのみやげから買いたいのだが条件がなかなか決めにくい。しかし、本当はそこがショッピングの楽しみなのかもしれない。ともあれ、嵩が張らなくて軽いもの、個性的なものなどと思いながら、銀製ネックレス、ハンドバック ミニチュア楽器(ホルン)、オルゴール、モーツァルトクーゲルン(チョコレート) などを買い求めたりした。

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ウィーンでの物は、まず品定めをしたら店員さんにIch michie 〜と言うか、めくばりをして取り出して貰うことである、日本のように自分で勝手にとってはいけないとガイドブックに書いてあった。 商品を買うとその店員が伝票を書いてくれるので、それを受け取り、別にいる会計の店員のところで支払いを済ませた後、商品を受け取るという慣習のようだった。

ところで、オーストリアには海外観光客に対する商品の付加価値税還付制度があり、TAX FREE SHOPに戻るが一か所で1,000AS 以上の買物をすると付証明書を発行してくれる。 付加価値商品によって20-30%程度(日本の消費税は3%だが)かけられているそうで旅行者にとっては有り難い。尤も、旅行者は居住者にくらべると日常生活にかかる社会的費用が少ない分だけ安くすることの合理性はあるし、もう一つは観光客誘致政策の一環なのかもしれない。

20.帰国の途へ

7月23日比晴れ、いよいよ最終日となる、午前中はまだ自由行動がとれるので有効に時間を使うことができる。スーツケースに少し余裕があるのでもう一度グラーベンの繁華街へ出ておみやげを買うことにする。 壁飾り、ブローチ、絵はがき、ウィーンナートルテなどを買いビルグラムガッセへ戻るとヴァイオリンの演奏が聞こえてきた。

一人の青年が駅舎のなかで T.A.Vitali (伊1985~?)のシャコンヌを弾いていた、実に懐かしい曲である、私が1943年に買ったSPレコード(ジャック・ティボーの演奏)によって何回となく聴いた曲である、とりわけ重奏音の変化が美しい、しばらく聴いてからヴァイオリンケースのなかへ30ASをカンパして駅舎を去ることにした。

例によってスーツケースはポーターさんが運んでくれることになっているので11:00に荷物整理を済ませ廊下へ出しておくことにする。お昼前11:50(日本時間18:50)これから帰国する旨家内へ電話をする。

12:30 ホテルを出て12:58ウイーン空港着、出国手続きは簡単でパスポートもノンチェックだった。免税還付をうけた後しばらく待ってから14:15A2ウイングに集合、14:45発のLH1459便にてフランクフルトへ向かった。

16:10到着、ここで乗り換えとなったが、今度は搭乗前に手荷物のX線検査があったほかハイジャック防止のためとみられる厳重なボディチェックをうけた。

LH710 便〈B747L)は17:00 搭乗、17:30 発、帰路のフライト時間は11時間丁度、新東京国際空港へ無事到着したのは、翌日(7月24日)の11:30、当然のことながら往路とは逆に一日が17時間に縮まっていた。

21.エピローグ

モーツァルトが逝ってから200年、彼の音楽に関する研究や資料の整備はいまなお限りがないようである。

いわゆるモーツァルト全集 (1862年初版、 1964年第6版改訂)の新版完成をはじめ、演奏様式の復元、新解釈の試み等である。また、ザルツブルグのタンツマイスターハウスの完全復元 (日本の第一生命保険会社が援助して第二のモーツァルト記念館の拡充を推進中) も待たれるところであるという。

モーツァルトの住家復元事業と最新情報|協賛・イベント活動|第一生命保険株式会社
第一生命保険による社会貢献活動の1つ、世界で最も愛されている作曲家モーツァルトの住家復元事業への支援と、モーツァルトの住家を巡る物語、コンサートイベントなどの最新情報をお届けします。

モーツァルトの時代、すなわち、神聖ローマ帝国・ヨーゼフII世の頃の音楽は、未だ王候貴族、宮廷のものであった。しかし、モーツァルト晩年の頃には音楽は次第に個人の内面に迫るものへと発展をする、いわば一般世俗社会のものへと変貌するのである、そして2世紀を経た現在、私たちはあまねくこれを享受し、糧としているのである。

モーツァルトはそういった時代の変化を先取りしつつ、私たちにかけがえのない財宝を遺してくれたのである。「モーツァルトへの旅 91」を終えたいま、私は、新たな感慨をもってモーツァルトの音楽に親しむことができる喜びでいっぱいである。

空駆ける音楽、優しく語りかけながら喜びも悲しみも現わな音楽、珠玉のような純粋さをもって、輝やく音楽、生きることを実感させる音楽、そして、エッセンスに満ち溢れる音楽、これこそがモーツァルトではなかろうか。

単なる一愛好者に過ぎない私であるが、モーツァルトがなかったら、ベートーヴェンもブラームスも、そしてこれらにつづく音楽はあれほどまでに人間の内面を歌うことはできなかったように思われるのである。

やがて21世紀を迎えようとするいま、狭くなった地球のうえいっぱいにモーツァルトの音楽がこれほど拡がりをみせるとは、想像し得たであろうか、モーツァルトは永遠であり不滅である、モーツァルトはいまなお、私(たち)に新たな希望と喜びを与え、日々、語りかけてくれるのである。

全五回、父のモーツァルト旅行記にお付き合いいただきありがとうございました。向こうで父も喜んでいると思います。文字で記録を残してくれたおかげで、父の知らない一面を垣間見ることが出来思いも深まりました。

しかし、親子でも知らないことが多く驚きの連続、もっと話を聞いてあげればよかったと反省。「親孝行したいときに親は無し」とはよく言ったものですね。親子といえども、別の人格だし趣味嗜好も違うことも痛感、自分勝手な私を支援はしても支配はしなかった父には今更ながら感謝です。自然体の付き合い方をさせてくれた父は懐が深かった、私も見習いたいと思います。

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