私事で恐縮ですが、2023年2月に父が他界いたしました。電力会社で定年まで勤め、その後も引退することなく関係先で70歳まで働いた仕事大好き人間だった父、92歳の旅立ちでした。
遺品を整理していたところ、定年後に旅した記録が書斎から出て来ました。1991年と2000年ですから30年以上前の話。モーツァルトやバッハ、絵画が大好きだった父は独学でドイツ語も学び、独りヨーロッパへ旅立ちました。
ワープロから印字され、綴られた紀行文。今の時代であればブログなどデジタルデータを駆使した方法はたくさんあります。しかし、当時は切り張りの挿絵などを張り込み、それをコピーするという手段。苦労の跡がにじみ出ている作品ですが、楽しい作業だったことでしょう。父の姿が目に浮かびます。
父の文章や撮り下ろし写真、フリーのイメージ写真等を盛り込み、デジタルデータとして完成させ残してあげたいと思います。亡き父も喜んでくれるでしょう。
記事をまとめていると父と一緒に旅しているようです。
1991年に旅した記録、モーツアルトの旅は、その1~その5。2000年に旅したバッハ没後250周年、中・東欧周遊の旅は、その1~その4、全9回でご紹介しようと思います。
モーツァルトへの旅 父の記録
その1・・紫 その2・・緑
1. プロローグ
もう 6年前のことだが、1985年のバッハ生誕200年祭への旅は東欧圏の政情不安もあって容易ではなく、 また、 業務が多忙をきわめたこともあってアイゼナハからライプツィヒへの旅のプランは机上の夢と消えていた。
しかし、モーツァルト没後200年を迎えたこの春、 彼地への旅の誘いに私を強く惹きつけたのは一枚のツァーガイドであった。そしてここ最近、ヨーロッパをめぐる諸情勢には明るい材料が多くなってきた、東西ドイツの統一が実現し、中東湾岸戦争も終結したことなど、ふたたび旅行事情は安定し回復に向かっていたのである。
モーツァルトの生地ザルツブルグや彼が活躍したウィーンへの旅のプランは誌面を賑わせており、私は次第に今年こそ、との想いに駆り立てられた。ツァーガイドによればベルリン、ミュンヘン、ザルツブルグ、ウィーン、そしてパリを巡る10日間の旅である。これならアルテピナコテークやオルセ一美術館巡りなども含め念願一挙に達成かと、 少し欲張ったプランではあった。7月後半ないし8月中であれば仕事の方も都合できそうだった。
5月のはじめ私はこの旅への参加を決したのであった。ただし、旅行社によれば最少催行人員は10名以上とある。 6月の後半まで動向をみまもったが参加者は 満ちそうになく、当初のコースは断念せざるを得ない結果となった。 一方、ミュンヘン、ザルツブルグ、ウィーン (8日間) へのコースはすでに20数名の参加希望者があり、こうして私もそのひとりとなることとした。
2. 新東京国際空港へ
7月16日(雨)、午前中をもって仕事を済ませ富山空港 14:25 発のANA886便に乗る。幸い雨は小止みになって少し明るくなった西の空を機は旋回しなが ら富山湾へ抜け出る。 機内アナウンスによれば新潟から、栃木、茨城を経て 羽田へ入るとのこと、 窓外にはときどき雲の切れ間がみられた。
私はこころのなかで、今回の旅行に理解と協力を示し、雨のなかを空港まで送ってくれた家内に、もう一度有難うを言いながら、はじめてのながい旅路に想いを馳せ機中の人となっていた。
やがて、機体が降下しはじめると地上の風景が次第にはっきり見えてくる、機は海上から無事着陸、15:25 羽田も小雨であった。しばらくしてリムジンバスに乗り換え15:50に出発、湾岸高速道路を経て17:20成田へ到着する。ホテルの送迎バスにて成田エアーポートレストハウスホテルへのチェックインを済ませたのは夕刻 17:50であった。
3.一日が31時間! シベリヤ上空を飛ぶ
9:00 空港までわずか数分だが重いスーツケースといっしょにホテルのバスで新東京国際空港ターミナルビルへ入る。南ウイング4階、2番カウンターのルフトハンザ航空出発カウンター前が今度のツアーの集合場所である。出発までの時間があり過ぎるが、朝、富山を出てくるのでは気象条件などのトラブルを考えれば止むを得なかった。しばらく空港内を眺めながら待つことにした。
11:00 ウィングツアー添乗員のH氏がみえたので挨拶を交わす。やがて同 行の皆さんも徐々に集ってきて、スーツケースの列ができはじめた。
11:30 「予定どおり出発できる」と、家内へ電話をかける。まもなくルフトハンザ航空の荷物カウンターへスーツケースを預けると手元がいっきょに楽になった。まだしばらく時間があるので南ウィング内のレストランで軽食をとっておくこととした。
12:40 全員集合、ここでH氏から搭乗までの手続きについて説明をうけたのち、空港施設使用券を購入、さらに、とりあえず必要となるマルク通貨を空港内の三菱銀行で交換 (¥79/DM) する。
13:15 搭乗手続きを開始、35番ゲートに向かうとLH 710便(ボーイングB747) の白い巨体がみえてくる。機内ではIさん、Tさんと並んで36C席に搭乗、同行の皆さんもほぼ近くに並んで席をとってある。予定時刻どおり機は14:05 に出発し一路フランク フルトへと飛び立った。
まもなく、機内では、テレビスクリーンを使って非常脱出装置、酸素マス ク、救命具(チョッキ)の使い方などが説明された。続いて機長アナウンス (ドイツ語) があったがその要旨が日本語で繰り返される。
*飛行距離:約9,900Km、高度:10,600~12,000m、速度:940Km、使用燃料121t (これは、≒0.038 K1/km/人)、所用時間:11時間10分の予定とのこと、およそ2時間くらい経った。
16:10 昼食の機内サービスが配られる、メニューは、パン、すし (2きれ)、茶そば、ご飯、チキンの煮込み、苺とヤクルトがついている、ボリュウムが多くてとても全部は食べつくせない。
17:00 からはコーヒータイム、つづいてLHワールド紹介がテレビで映し出された後、ITNニュース (G7会議やロンドンサミットなど)があって、さらに映画2本(Allen gehts gut, Sibling Rivalry) が上映された。
19:15 サンドイッチとジュースがサービスされる。 21:35 映画終了、窓外はずっと明るく下界に小さな雲と平地がみえた。とき折り、川や道路が蛇行しているところがみえたりしていたが湿原地帯のようでもあり、時間経過からみてシベリヤの上空かと思われた。
23:00 夕食の機内サービスをうける、夕食のメニューも体のエネルギー消費が少ないのでもったいないが食べきれない。パン、ハンバーグ、スパゲッテイ、野菜サラダ、パインとキウィが添えてある。
たびたび食事を運んでくれるスチュワーデスは若い金髪のドイツ女性である。日本人スチュワーデスも乗務しているのだが、私は、つい、ドイツリートなどに歌われている若い女性を想像したりする、ドイツやオーストリアの乙女はやはり今もつつましいのであろうか。
23:30 機長アナウンスがあって、やはり日本語で説明があった。残りの飛行時間は2時間20分、飛行機はレニングラード上空を飛行中、コペンハーゲ ン、ハンブルグ経由、フランクフルトへと向かうとのこと。ほどなく、ヘル シンキ上空を飛行中とのアナウンスがつづく。この後、約1時間半経過した01:10機体は水平飛行から降下しはじめる。
01:40 フランクフルト空港へ無事着陸、地上走行へと移る。さすがに空港は広くかなりの距離を走って、ようやく01:50 機体から降りることができた。現地はサマータイムになっており時差は7時間、時刻は18:50 したがってフライトタイムは11時間45分であった。
外は陽が暮れかけていたがまだ明るい。同行の皆さんとひとまず無事着いたことを語り会ったりする。空港ターミナルビル内は広く意外に閑散としており、なんとなく終着列車から降りたような感じであった。
到着ゲートから国内線ゲートへは延々と続く水平エスカレーター式地下道で結ばれており、ここをわたって待合室にはいる。室内のかたわらにフルーツが備えられいたのは珍しく、リンゴやバナナなどご自由にというわけである、これは日本ではみられないサービスだと同行の皆さんもにっこり。
あらためて手荷物検査があり、21:40 (以下現地時刻) フランクフルト発のLH 282便(ボーイング A320) に搭乗、22:35 にミュンヘン空港に到着した。
空港を出ると小雨が降っていた。 H氏によれば、このため特別に迎えのバスを空港ターミナル内へ乗り入れることができたそうで、重いスーツケースを持った私達への配慮は有り難かった。バスは右側通行、ときどき信号を待つ、車のライトが交錯するなかを小雨をふり払いながら、ほどなくバスはラマダーパークホテルへ到着した。
早速、ロビーでスーツケースとセキュリティカードをもらった後、明日の予定について説明をうけ部屋に入る。ながい一日を終えてホットする、とうとうミュンヘンにきたのだ。 シャワーを済ませると時刻は夜半、持ってきた世界時計は日本時間18日午前7時を指していた。自宅へ無事到着の電話をすると家内が元気な声でこたえてくれた。はじめて経験した31時間のながい一日であった。
4. ノイシュヴァンシュタイン城へ
7月18日(晴れ)、静かなホテルの朝を迎える、よく眠れたので目覚めが早かった。ホテルは英国庭園の近くにあり都心から離れていた。中庭の緑は自然の原野のようで小鳥たちのさえずりもにぎやかだった。
07:30、ホテルのレストランで全員揃って朝食をとる。時刻は08:00 ハインツ氏が運転するバスは私たち24名を乗せて出発する。バスは次第に郊外へと向かっていく。
歩いて出勤する人は疎らだが、車も余り多くはない。道路沿いに建つ集合住宅は5,6階建ての寄せ棟型が多く、色彩はアンバー赤い屋根がめだつ。それにしても、こまごまとした看板や電線などもみえず街道は実にすっきりとしている。
ほどなく、オリンピック施設や記念タワー、ベンツ社などがみえた後、バスは次第に市街地を離れ、やがてアウトバーンにさしかかる。ときどき左追い越し車線をベンツやワーゲンがみるみるうちに抜き去っていく。
09:15 アウトバーンを出て一般道へ入る。おっとりとした田舎の風景に変わっていく。丘の斜面には牛がのんびりと草を噛んでいた。雲が次第にきれて日差しが強まってくる。赤屋根の集落には必ずといっていいほど教会の鐘楼がみえかくれする。模型のようなローカル鉄道が交差しており通過を待つ、森が点在する。刈り取って天日で乾した牧草をトラクターが反転している。
09:30 バイエルンアルプスがみえはじめた頃、最初の観光地であるノイシュヴァンシュタイン城への道程のほぼ中ほどまで来たとH氏が言う。バスはしずかにウィンナーワルツやポルカなどを流しながら快調にドイツアルペン街道をフュッセンの方へと走りつづけた。
10:00 ノイシュヴァンシュタイン城がみえてくる、ここはヴュルツブルグからはじまるロマンティック街道の終点である。なおしばらく走ってから道路脇で停車し、山腹に白く輝いてみ えるノイシュヴァンシュタイン城を撮影する。
10:30 山麓のホテル、ミューラーの近くでバスを降り、城の観光へと向かう、それほど遠くはないが山道なので、この麓から私は同行の何人かの方と小さなバスに乗り城へ登った。城門を入ると、平日だがすでに客の列がながく続いていた。
入城チケットがあったのでドイツ人の客を分け入って進むと鉄格子があって一定人数に区切って入室させていた。そのうちに皆さんとはぐれてしまい、ドイツの人達に混じってみることになってしまった。
この城はルードヴィヒII世が1869年から17年の歳月をかけて築造したものといわれ、内部には王が心酔したリヒアルトワグナーの楽劇を画いた壁画がみられる。玉座が置かれていない部屋は城が完成しなかったことを象徴しているようだ。
わずか3カ月住んだ若き国王は狂人として王座を追われ、シュタルンベルク湖に身を投じたといわれ、悲劇の舞台となったところである。ともあれ、この城がロマンを感じさせるものであることは確かである。
城の見学を駆け足で終えたものの予定時刻より20分も遅れて山道を徒歩でミューラーまで降りる。すぐ近くの山の上にホーエンシュヴァンガウ城が望 まれる。どっしりとした古城でバイエルン王マクシミリアンII世 (ルートヴ ィヒII世の父王) が建てたものである。
ホテルでは昼食の準備ができているのだが、一行を確認するためなかなか戻ってこないH氏を待ちながらUさん父子と食事をはじめることにする。一杯のビールがとても美味しくメニューはスープ、ビーフ、フランス風舌ヒラメ、パン、野菜など、私達がほとんどいただいた頃、H氏の顔がみえたので安心する。
・・・その2へ続く