私事で恐縮ですが、2023年2月に父が他界いたしました。電力会社で定年まで勤め、その後も引退することなく関係先で70歳まで働いた仕事大好き人間だった父、92歳の旅立ちでした。
遺品を整理していたところ、定年後に旅した記録が書斎から出て来ました。1991年と2000年ですから30年以上前の話。モーツァルトやバッハ、絵画が大好きだった父は独学でドイツ語も学び、独りヨーロッパへ旅立ちました。
ワープロから印字され、綴られた紀行文。今の時代であればブログなどデジタルデータを駆使した方法はたくさんあります。しかし、当時は切り張りの挿絵などを張り込み、それをコピーするという手段。苦労の跡がにじみ出ている作品ですが、楽しい作業だったことでしょう。父の姿が目に浮かびます。
父の文章や撮り下ろし写真、フリーのイメージ写真等を盛り込み、デジタルデータとして完成させ残してあげたいと思います。亡き父も喜んでくれるでしょう。
記事をまとめていると父と一緒に旅しているようです。
1991年に旅した記録、モーツアルトの旅は、その1~その5。2000年に旅したバッハ没後250周年、中・東欧周遊の旅は、その1~その4、全9回でご紹介しようと思います。
※画像はクリックすると拡大でご覧いただけます。
中・東欧周遊の旅をゆく バッハ没後250年記念の年に 父の記録
バッハの聖地ライプツィヒ
5月26日(金) 07:30発である。ポツダムからライプツィヒまで156Km、アウトバーン9号線を走る。この辺りは丘陵地帯、麦畑が延々と続く。車中のスピーカーは添乗員さんが準備してきたバッハ名曲集を心地よくながしてくれる。
地図をみているとデッサウの街が近づいた頃、エルベ河を渡り、ほどなく支流ムルデ河も越えたようだった。ところどころに発電用風車がみえる、ときには10数基も林立しており、地球環境をまもるこの情景にはさすが、と感心した。
さて、ライプツィヒは、人口44万人、大学、見本市、出版印刷の街といわれる。そしてまた、ゲーテやニーチェが住み、バッハのほかにもシューマン、リスト、などの音楽家が活躍したところである。
快晴のアウトバーンを走って10:15頃、ライプツィヒに到着した。バスは聖トーマス教会 のすぐ近くに停車した。いよいよバッハの聖地ライプツィヒの街に一歩を踏む。私は少し気持ちの高まりを覚えた。
いったんマルクト広場に集合して、周囲の様子をみながら地理感覚を整理する。さっそく現地ドイツ人女性ガイド、シルヴィアさんを迎えて市内へ向かう。
聖トーマス教会牧師の家の脇に立ってバッハが在住した頃の街の様子などについて聞く。すでに知られるように、バッハはケーテンからこの街へ移ったのが1723年、ヨハン・クーナウ (1660~ 1722) の後をうけて27年間、聖トーマス教会付属学校カントル (合唱長) として教会音楽の仕事に没頭した。
教会脇の緑陰に建つバッハ記念像 (1908年カール・ゼフナー作)を仰ぐ、バロック音楽の大成者音楽の父ともいわれ、歴史に残る偉業を成し遂げた人である。台座の上で一歩足を開いた姿は堂々として威厳がある。教会建物の中に入ると白い壁のゴシックアーチが美しい。
実はここでも内部の修復工事中でやや落ち着きが悪かったが、それでも、祭壇と向背部および側窓のステンドグラスが輝いている。とくに側窓のステンドクラスのなかにはバッハやルターの像が配されているのがみてとれた。
また、中央の床 (聖歌隊席)にはバッハの墓碑銘が刻まれ花が添えられている。工事中とはいえ、祭壇真向いに据えられているパイプオルガンが奏でられ、身体にしみいる重厚な音色に感嘆した。さらに、教会正面脇の小公園にあるバッハ記念像をみる。
1829年頃、マタイ受難曲を蘇演した青年メンデルスゾーンによるものだといわれている。小さな4面のレリーフであるが、バッハの肖像、オルガンを弾く像などが刻まれており親しみ深く思われた。
なお、聖トーマス教会右手ビル内にバッハ博物館がある。残念なことに日程の都合上ここでは十分時間がとれず、当時、教会牧師の家として使われていた家の木製扉をみたものの、あとは割愛となった。なお、この街はリング(旧城壁) 内であれば十分歩いてみられる街である。
このあと、マルクト広場のテント市場、再建された旧市庁舎(現歴史博物館) の前から旧商品取引所前のゲーテ像をみてニコライ教会へと向かう。かつて、ニコライ教会でもバッハは日曜日の礼拝などで合唱隊を指導している。
ガイドによれば、1989年10月、ここで民主化要求デモに対する警察の鎮圧事件があったが、なおも数万人の民衆が平和の祈りに結集したことが発端となってベルリンの壁崩壊、東西統一への大きなながれが生まれたという。
内部を一巡した後、メドラーバッサージュを歩く。ゲーテのファウストに登場するという居酒屋アウエルバッハス・ケラーの入口にファウスト博士とメフィストフェレス像があった。
マルクト広場に戻ってから昼食(PAULANERにて) までのわずかな時間であったが、ライプツィヒ市の観光案内書を求めるため、わざわざ添乗員のOさんとシルヴィアさんに中央駅前のインフォメーションまで案内していただき恐縮した。
マイセン磁器工房をみる
午後は13:30発、アウトバーン14号線をマイセンへ、夕刻までに約100Kmの道程を経て宿泊地ドレスデンへ入るという。実際は一般道も通ったのでマイセンに到着したのは15:50であった。
マイセンはエルベ河に面した小さな街である。バスが山手から入ったのでよく見えなかったが、アルブレヒト城、大聖堂が聳えるように建っていた。また、エルベ河両岸に赤屋根の町並みが広がっていた。
さっそく国立マイセン磁器工場付属の磁器博物館と見学工房をみた。磁器博物館ではビデオ映像による歴史紹介、すなわち、ときの選帝侯アウグスト1世の強力な支援のもとで、 それまで東洋でしかできなかった白色磁器の製造をベトガーらによって完成したこと、アルブレヒト城内に工房をつくり、製造秘密を守らせたことなどが説明された。
なお、トレードマークである「交差した青い剣」の形によって製造時期が判別できるという。 1、2階の博物館にはあらゆるタイプの磁器製品が数多く展示され、食器・人形など、形、デザイン、ポピュラーなコバルトブルーをはじめ、金彩など、気品高く、華麗さを誇っているようである。
もとより緻密につくられているので至って高価である、かつて王室の財政を潤したことは確かであろう、いまなお、ザクセンの文化遺産であり高い評価を維持しつづけているのである。内外からの見学者が絶えないようだ。
1階の見学工房では、ろくろ型取り、パーツの組み付け、繊細な絵付けなど、モデル作業を1室ごとに見ることができた。マイセンをでて約1時間、夕刻 18:20、ドレスデン市内のホテル、アストロンに到着夕食はホテル内でゆっくりいただいた。
ザクセンの州都ドレスデンへ
ドレスデンは、 かつて「百塔の都」「エルベのフィレンツェ」ともいわれ、人口48万人、チェコ国境まで40Km近くの、エルベ河に沿った街、古くからの芸術文化都市といわれてきた。第2次世界大戦で壊滅的な被害を受けたそうであるが、いまでは、かなり昔日の面影、商業、芸術文化の復興をみているようである。
5月27日(土) 9:00 出発、ホテル、アストロンをでてエルベ河右岸側を走り、新市街からの観光である。現地日本人女性ガイドさんを迎え、車窓から日本宮殿、州財務省や政府の建物をみる。
バスはエルベ河に架かるカローラ橋を渡る、この橋の上からみるエルベ河左岸の歴史的建造物群の景観は見事というほかはない。バスを降りてエルベ河左岸ブリュールのテラスへと向かう。先程、通った新市街側に配置されている建造物が対岸に一望される。歩いている左岸側では、先ずネオルネッサンス様式のアルベルティーヌム (王家の財宝を展示) の見事な石造建築とその装飾が仰がれる。
歩をすすめるにしたがって、カトリック宮廷教会、ゼンパーオーバーが見えてくる。ここからいったんアルベルティーヌムの後へ廻ると、いま、再建中のフラウエン教会の足下に入る。
ここは、かってドイツ最大のプロテスタント教会であった。史実によれば、ライプツィヒに奉職していたバッハが、1736年にこの教会のジルパーマン製オルガンによる演奏会を行なったことが知られている。
1945年に戦禍で壊滅。ようやく1994年から再建工事が始まったという。巨大な足場が整然と現場を囲んでいる。完成は2006年(建都800年)、費用の大半は寄付金とか、時計メーカーの広告がみられる。現場の傍らに大きな柵がいくつもあり、ここには瓦礫から分別し再使用されるブロック片が収蔵されている。
このあたりは人や車の動きも混沌として喧騒な雰囲気につつまれていた。ついで、かつての武芸競技場の長い回廊外壁に描かれた「君主の行列」をみる。当初は漆喰で描かれていたが、その後、現在みられるようにマイセン磁器タイル (長さ102m 25,000 枚使用) によって転写されたものである。
1127年コンラード・グロッセン王から歴代35のザクセン君主が列をなしている。選帝侯アウグスト強王(1670~1733)の像は悠然とみおろすように描かれている。なお、最後尾の画面にはかってドレスデンの宮廷指揮者に迎えられていたリヒャルト・ワグナー (1813~1883) 像も描かれている。
「君主の行列」壁画を見た後、再びブリュールのテラス下手の階段を登ってゼンパーオーバー、カトリック宮廷教会レジデンツを一望しガイドから説明を聞く。ゼンパーオーバーから楽音が聞こえた。1826年に創設されウェーバーが初代音楽監督を務めたところである。
カトリック宮廷教会(~1754)についてはプロテスタントの当地として特異な存在であるが、 理由あってのこと、アウグスト強王がポーランド王を兼ねたときに改宗し、これを建てたとのことである。上下屋根の干に数多くの聖人像が立っている。黒ずんだ外壁は石材中の鉄分が酸化したものだという。
つぎ私たちはツヴィンガー宮殿へ向かった。この宮殿はアウグスト強王の時代(1732 )にできたもので、先ず、中庭を抜け濠の外へでて 「王冠の門」(クローネン・トーア)をみる。門の上のポーランドの王冠はアウグスト強王の栄光を象徴、黒地、金色の輝きが青空に映えて美しい。
つづいて、北館のアルテ・マイスター絵画館をみる。ここは、見るべきものが多く気持が思わず急いでしまった。カナレット (1697~1768)の部屋では 「エルベ河とアウグスト橋」、「ドレスデンのツヴィンガー宮殿」 など、密に描かれているので時代考証に役立つようだ。
彼はヴネツアの画家、イタリヤ以外では、ロンドン、ドイツ、ウィーンなど各地で活躍した人である。オランダ絵画の部屋では、レンブラント (1606~1669) を探してみた。自画像聖画などの群像作品でも「光と影の巨匠」を強く印象づける。
また、ヤン・フェルメール (1632~1675) の2点に会えた? のは幸運であった。「窓辺で手紙を読む女」はほのぼのとした印象、「周旋(素)」は後年の画風と明らかに異なっている。
イタリヤ絵画ではダヴィンチ、ミケランジェロと並ぶ三巨匠の一人、ラファエロ (1483~1520) 「システィナーの聖母」 が部屋の正面を飾っている。
聖母子像の様式としては愛の聖母タイプとみてよい、静ななかに一瞬の動きが感じられる。
*画集によるとこの作品は、ベルナルド・ベロット (1697~1768 カナレットの甥)、承認 アントニオ・カナレットとされていることから共同制作かもしれない。
さて、新市街のレストラン( DER LOEWE)で昼食後、しばらくフリータイムとなる。そこでプラタナス並木のハウプト通りを散策した。この通りは戦禍を受けなかったらしく、バロック風の建物が落ち着いた街並を呈している。
目にとまった小さな店で人形(金管楽器を演奏、指揮する人)を求めた。ごく弱い通り雨?に会ったが間もなく止んだ。通りの北端交差点付近で、はるかボーランドへ出陣する姿の帝侯アウグスト強王の金色騎馬像をみる。
午後は国境を越えてチェコの首都、プラハへ向かう。15:15初めての国境を越えである。 ドイツからチェコへの国境検問所で検査官がバスの中へ入ってくる。パスポートの顔写真を見開きにしてチェックを受ける。
辺りをみても境界杭が見当らない。境界つづきで麦畑がみられるのが不思議に思われた。貨物の手続きは面倒らしく、トラックが長い行列をなしている。各自、バスから降りて通貨交換所へ行く。一斉にマルクからコルナへの通貨交換を請求するので係官が忙しそうだった。チェコに入りすぐ近くの店でコルナを使ってみる。
さっそく買い求めたチェコのビールは随分安く (1缶18KC≒54円) 美味しく思った。バスは、なだらかな丘陵地を通る、例によって、車中にはOさんが用意したスメタナやドヴォルザークの曲がながれている。
ときおり、草地に群生する赤い芥子の花が視界に飛び込んでくる。あるときは、点々として集落を通過、夕刻 18:20 プラハ市北郊外のホテル、デュオに到着した。
・・・その3へ続く