中山道 その7 鴻巣→吹上
中山道その7は、鴻巣→北鴻巣→吹上を歩きます。
距離は18,4Km、所要時間は4:37時間 20,176歩、消費カロリー1298kcal
※画像はクリックすると拡大でご覧いただけます。
鴻巣→北鴻巣
駅前のひな人形の看板を見ながら、前回訪ねた鴻神社の前を通り北鴻巣を目指します。
街道沿いにある池元院は日蓮宗の寺院、鬼子母神堂と蘭渓堂碑があります。
蘭渓堂如水は書の道にすぐれ、鴻巣宿をはじめ地区の指定の指導にあたりました。
功績をたたえるため筆塚として建立されたとあります。
向かい側に、「京三条大橋へ百二十三里六町、熊谷宿へ三里三十二町」と刻まれた道標があります。
この加美の交差点は左が旧中山道、なのに右へ行ってしまった私、痛恨のミスです。
道を間違えて時間をロス、高崎線の踏切を渡り進路修正。旧街道へ戻ります。
真言宗の寺院、1600年頃創建の「真相寺」には古い石仏がありました。
街道の向こうには曹洞宗の「永林寺」、こちらも1634年創建で不動明王を拝むことが出来ました。
少し歩くと真言宗「光徳寺」と寺院が続きます。
こちらも創建は古いようで石塔と石仏が並びます。
街道の向こう側にひろがる大きな敷地が「箕田観音堂」。
往時は吹張山平等院と呼ばれていた寺院の観音堂です。
残っている正面の灯篭には吹張山観世音箕田村、平等院と刻まれた文字がみてとれます。
羅生門の鬼退治で有名な源頼光四天王の一人、渡辺綱が987年に開基、本尊は戦いの際に兜の中に頂いていた馬頭観世音、平安時代中期に活躍した源経基の守り本尊とか。
そういえば、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で頼朝も小さな馬頭観世音を持っていましたね。
このあたりは源氏と深いかかわりがある土地ということです。
しばらく歩くと村の鎮守様、「宮登神社」。
先に訪ねた光徳寺を開基した高野聖の源楽上人を祀っています。
宮前村と登戸の頭文字を採り、社号が宮登神社に改められました。
また、本殿裏は宮登古墳があります。
規模は、直径25メートル、高さ1,9メートルの円墳。
玄室から水晶製の切子玉、管玉、丸玉などが出土しており、7世紀の前半~中頃に築かれた古墳。
この地域は寺社仏閣が続きます
次は真言宗寺院の龍昌寺、江戸時代までは箕田龍珠院と称していました。
参道を進むと立派な山門、末寺36ヶ寺の本寺だけあって広々しています。
本堂も大きく、興教大師像と弘法大師像が立っています。天満宮もありました。
お隣に朱塗の門が迎えてくれるのは曹洞宗「宝持寺」。
渡辺綱が祖父と父の菩提を弔うために建立したと伝えられており、江戸幕府より寺領5石の御朱印を拝領。
渡辺姓の祖とされており、渡辺さんはぜひ訪れて頂きたい寺院です。
全国渡辺会の建立した「嵯峨源氏顕彰碑」、みだ薬師三尊佛を安置した「薬師堂」や十八羅漢など、みどころが多くあります。
街道に戻ると「氷川八幡神社」。
箕田の鎮守であった八幡社と同じ村内の氷川社を合祀して現在の社名に、別名綱八幡と呼ばれ渡辺綱ゆかりの社として知られています。
御朱印も京都一条戻橋で鬼の腕を切り落とした逸話でも有名な綱に因み、鬼のイラストが描かれています。
少し奥に入ると高台に「氷川神社」があります。
こちらは箕田古墳群箕田二号墳の上に鎮座している箕田村の鎮守で清和源氏初代源経基の創建。
箕田古墳群は大宮台地の北端部で古墳群は標高16~18メートルの地点に、幅約600メートル、長さ1000メートルの広い範囲にわたって散在、7基の古墳が残っています。
すぐ並びで「満願寺」の大きな樹が見えてきました。
こちらも源氏ゆかりの真言宗の古刹
寺領五石の御朱印を拝領しています。
馬頭観音を過ぎ、その先武蔵水路を渡って行けば路の角には古い石塔が5つ並んでいます。
北鴻巣→吹上
「箕田追分の道標」に到着しました。
忍(行田市)や館林城下へ向かう道がこちらで分かれるので箕田村字追分というようになったとか。
追分には立場茶屋がありました。
旅人が休憩したり近村から寺社参詣などで旅立つ者を見送る人々が別れを惜しんだ場所。
案内には左中山道、右館林道の道標、立場で旅人が休憩している様子、お地蔵さまが描かれています。
今も向かい側には絵のとおり「地蔵堂」があります。
地蔵立像が安置されており庚申塔も残っており、歴史を感じます。
すぐ先の道路脇にも古い石塔、青面金剛像と岡象女之神がブロックに囲まれてひっそりとたたずんでいます。
岡象女之神は「ミズハノメノカミ」と言って代表的な水の神様。
美しい乙女の姿をしており農耕神とされています。
池田栄泉の「鴻巣・吹上富士」はこのあたりで描かれたと刻まれた「前砂村標石」を確認して左へ進むと曹洞宗の寺院「龍昌寺」です。
境内の「板石塔婆」は前砂地区に祀られていたものを集めて安置したもの。
「前砂の板碑群」として説明書きがあります。
中山道歩きの途中板橋宿から戸田橋を渡る際にも同様の板碑があったことを思いだしました。
こちらにも秩父産の緑泥片岩が主に用いられたことから青石塔婆と呼ばれたとあります。
「前砂の一里塚跡」です。
日本橋から十三里目の、前砂の一里塚は榎の茂った塚が描かれているが現在は残っていないそうです。
先の左手には「観音堂」、こちらは宝蔵院の跡地で元禄八年をはじめとする法印墓石八基などがあります。
100メートルほど南側には前砂村の鎮守、「氷川神社」。
明治六年村社となったとあり、祭神は素戔嗚尊と稲田姫尊の二柱。
祭神は、白が嫌いなので氏子内に白塗りの壁もないし、白い鶏を飼ってもいけなかったという。
街道に戻り進むと吹上駅手前の高崎線の踏切が見えてきます。
こちらには熊谷宿へ二里二十二町の中山道道標がありますので踏切を渡って街道を進みます。
NTTさんが目印です。
すぐに「妙徳地蔵」の祠があります。
得道成仏を誓う妙徳地蔵尊として祭り後世に伝え眼病の守護を誓う者との石碑がありました。
道中所々に赤で描かれた「中山道の道順案内」が目立つ矢印と共にポイントに掲示してあります。
知らない土地でこれはありがたい、迷わず進めますね。
吹上駅近くまでやって来ました。ゴールはもうすぐです。
駅から少し離れたところに吹上山「勝龍寺」があります。
寺紋は三つ葉葵
家康公も尊敬した鴻巣宿の勝願時の名僧「不残上人」が隠居寺として居住したお寺。
存在感がある鐘楼、江戸期に時の鐘をついていたそうです。
吹上駅前の交差点を過ぎて右手の奥に見えるのは「明治天皇御駐輦址碑」。
明治天皇が北陸東海巡幸のとき三条実美を伴い休憩したところ。
街道は大きく左に曲がります。先にあるのが「東曜寺」。
加賀藩の大名行列と、日光へ向かう八王子千人同心が鉢合わせ。
通せ、通さんの小競り合いを東曜寺の御前が機転をきかせて加賀のご一行を境内に招き入れ八王子千人同心を無事通過させたという話が残っています。
甲州街道歩きで学んだので千人同心のことは知っていましたが、相手が加賀百万石でも幕府直轄同心は、やはり格上なんですね。
すぐ隣は「吹上神社」。
暴れ御輿で知られ、祭りには山車も見られます。
明治40年4月、氷川社と稲荷社は日枝社に合祀され、日枝社が村名を採って吹上神社と改名したそうです。
吹上の地名について、「風で砂が吹き上げるところから生じたもの」との説があると書かれています。知りたかったことが分かってスッキリ。
確かに冬場の北風はすごいって想像はつきますからね。
神社から先へ進み高崎線が見えてくるところに陸橋があります。
こちらに吹上「間の宿」の石碑があります。
吹上は鴻巣と熊谷の「あいの宿」として発展、両宿の距離が長いので中間にはお休み本陣や馬次の立場を設置する必要があったためとあります。また、日光東照宮を警護する武士達の「日光火の番道」と中山道が町の中央部で交差したことも重要視されたことであるとあります。
これにて本日の予定は終了です。
街道を吹上駅の方へ戻りましょう。
吹上駅前の交差点のそばに歴史がありそうな和菓子屋さんの看板が見えます。
「だんご屋」さん。創業当時の古いお店の写真が店内に飾られています。
看板には砂糖という文字が。
こちらも「いがまんじゅう」があります。
ウインドウにズラッと並んで気になった「吹上づつみ」を買うことに。
焼き菓子ということで帰宅後食べましたが白あんが上品な感じでなかなか美味、ブランデーケーキ推しなだけに納得です。和菓子屋さんで洋物も有りということを学びました。
駅前ロータリーに移動すると、十万石の看板。
それも感謝デーで半額、ラッキー!
埼玉では有名な「十万石まんじゅう」、以前頂いて美味しかったので買って帰ります。
正式名称は「十万石ふくさや」さんで、本店は行田、埼玉県内に36店舗もあることを初めて知りました。
ほんのり山芋の香りがするしっとりした皮、十勝産小豆のこしあんの組み合わせはくせになります。
機会があればぜひお召し上がりください、お勧めです。
今回も無事お土産もゲットし安全に街道歩きを終えることが出来ました。
18km超のロングウォークでしたが、訪ねる神社仏閣が多く参拝しながらの街道歩きで疲れもさほど感じませんでした。これもご利益か!?
次回は中山道シーズン1最終ゴールの熊谷へ向かいます。
↓↓中山道を歩く その8はこちら