大山街道 その6 すずかけ台→さがみ野
大山街道その6は、すずかけ台→さがみ野
距離は11,5Km、所要時間3:09時間 14,647歩、消費カロリー1.477kcal
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すずかけ台→下鶴間宿
今日の街道歩きはすずかけ台からですが、その前に朝食をいただきます。以前から気になっていた東急沿線の駅構内に展開する「しぶそば」を目指して青葉台で途中下車。
私は目的の「懐かしの黄色いカレー」、妻は「春菊天入りとろろそば」です。甘口ながらもカレー粉のスパイシーさも堪能しつつ、妻のおそばも途中で拝借。バカでかい春菊の天ぷらへの驚きもさることながら、駅そばとは思えないしっかりとしたお出汁と麺に大いに満足。すずかけ台駅へ向けて出発です。
駅を出て、馬の瀬橋で線路を横断して246方面へ向かいます。途中の「南つくし野こうま公園」は高台で眺望抜群、本日天気は今一つですが大山の山々を眺めることができます。園内には、癒しをあたえてくれる、ほのぼのとした「親仔馬の像」があります。
国道246を横断して旧道に入り進むと左手に「辻地蔵尊」と道祖神の石碑。建てられたのは1740年とありますから約280年前、長きにわたり皆さんの願いを聞いてきてくれた、ありがたい地蔵尊です。
国道246と合流し、町田の辻を過ぎると国道16号の交差点となります。ここを渡りニトリの裏手が旧鎌倉道、先に高台があり「鶴間一里塚」が見えてきます。円墳のような頂上には「御嶽神社」が祀られていました。
右手はグランベリーパーク、公園の一角入ると「水道みち(トロッコ)の歴史」という看板が登場しました。津久井から横浜の野毛まで44km、わが国初の近代水道として創設。資材運搬用にレールを敷きトロッコで運んだ歴史があるそうです。明治20年ですから、横浜は時代の先端を走っていたんですね。
右手奥が田園都市線の南町田グランベリーパーク駅方向。おしゃれなネーミング通りタワマン、ショッピングモール、レストラン&カフェ、スヌーピーミュージアムと住みたくなる要素満載の街です。
英語の「Grand(壮大な)」と「Berry(果実)」を組み合わせた言葉がグランベリーということらしいです。246を横断する銀河の橋からは広大な敷地が眼下に広がります。橋には「織姫のモニュメント」を見ることができます。街も立派なら、歩道橋も立派です。
旧街道に入り進むと、Y字路の間に「大ケ谷戸庚申塔」が石灯籠とともに建っています。しめ縄も巻かれた、ありがたい時代を感じる庚申塔です。横がバス停で地元に愛されている感じが伝わってきました。
すぐ先の左手には、町田市指定有形文化財の「日枝神社」の鳥居が見えてきました。本殿は鎌倉の有力大工の関与が判明する唯一の事例とあります。欅材をふんだんに使い、拭き漆仕上げが多く細部まで丁寧に作られているそうです。外からは見えませんが、中には歴史ある立派な本殿があります。
向かい側には浄土真宗寺院「圓成寺」の寺号標。大きな桜と銀杏の木が目を引く広大な敷地に本殿が建っています。北條氏綱の家臣が仏門に入り開創と伝えられており、市の有形文化財「聖徳太子立像」が本尊の阿弥陀如来立像とともに安置されています。街道は東京の町田から神奈川の横浜に入ります。
国道246との合流地点には「五貫目道祖神」を見ることができます。北は世田谷青山、西は伊勢原小田原、南は戸塚鎌倉に通ずる三方の分岐点として境川鶴瀬橋手前に祀られていた道祖神とありました。みるからに時代を経た趣のある作りです。
再び246を横断して、境川に架かる「鶴間橋」を渡ります。竹林が美しい緑に囲まれた「九つ井」(ここのついど)というお食事処を左手に見て進むと「観音寺」なんですが、古式手打ちそばの看板が気になります。
鶴間山「観音寺」の寺号標から石畳の参道が門へ続いており、武相卯歳観世音札所 第一番の石柱があります。武相観音霊場は、12年に1度、卯年の春だけ御開扉、秘仏の観音様をお参りすることが出来るそうです。
霊場は武蔵と相模の国に48札所があり、直近の御開扉は一昨年2023年。次は2035年、秘仏のお参りができるよう次のうさぎ年まであと10年、元気で頑張らなくてはです。「太子堂」もあり、1725年に作られたとされる木造聖徳太子像が安置されています。本尊は慈覚大師御作と伝えられている十一面観世音菩薩。
この辺りは鎌倉街道も通っており、いざ鎌倉!旧鎌倉街道(新田義貞進撃の路)の案内道標が建っていました。大山街道沿いには「大山阿夫利神社御分霊社」の真っ赤な鳥居が登場します。
境内には新田軍の鎌倉進撃路や「新田義貞公之像」があり、関係の深さがうかがえます。きれいに掃除が行き届き整備された気持ちいい神社。これから向かう大山阿夫利神社の御分霊が宿場の入り口に鎮座する神社ですから、さぞかしにぎわったことでしょう。
下鶴間宿→さがみ野
街道は下鶴間宿に入ってきました。まずは「下鶴間宿の高札場」二か所あったとあります。旧小倉住宅は「下鶴間ふるさと館」として外観はいつでも見られます。屋内は公開日が限定されていました。
向かいの大きなお屋敷は「名主の長谷川家の住宅」、隣が「下鶴間不動尊」足元に気を付けて急な石段を上ることにします。階段のすぐ右手には、不動尊の石碑がありますが風化が激しくて上部は失われていました。頂上に着くと視界が開けて眺め良く、お堂と横には天神さまと蚕神さまが祀られています。
お隣が浄土宗「鶴林寺」。開基は1569年に土地を寄進した瀬沼伝右衛門とのこと、ご本尊は火災で焼失し、1917年に大本山増上寺より戴いた阿弥陀如来がいらっしゃいます。代官だった瀬沼家の墓所もあり、歴史ある石塔がならんでいました。鶴間学校の石碑もあり、この地の教育にも大いに貢献したことがうかがえます。
下鶴間宿は染物屋、居酒屋、餅屋、質屋などの商家や旅籠があり、1831年には渡辺崋山が旅籠「まんじゅう屋」に1泊したそうで、飯うましと記しているとか。崋山が描いたイラスト、さすがです、いい雰囲気でてますね。
街道が分かれるところに旅籠まんじゅう屋(土屋家)跡があり、道標には左矢倉口、右星谷口とあります、お向かいには真っ赤なお堂の中に祀られた「子育て地蔵尊」、隣には常夜燈と刻まれた石碑も。
さらに坂道の街道を進むと、坂上に二股に分かれる街道と「厄除け地蔵尊」が現れます。先に見えてくる、真っ赤な鳥居は「日枝神社」、この辺り赤が続きますね。長いアポローチの先に拝殿が。
鳥居横の「庚申塔」はかなり時代を経たもののようで、状態はかなり悪く刻まれた文字が読み取れません。東西矢倉沢往還、南北滝山街道の案内石碑も建てられています。
街道は鶴間駅までやってきました。駅に近くには「矢倉沢往還の案内石碑」があり、全国の「大和」という市町村で構成している「まほろば連邦」の加盟国、山梨県大和村より産出される甲州鞍馬石で出来ているとのこと。
最近少なくなった街のお蕎麦屋さん、残念ながら今日はお休みのようですが私の経験から言えば、ここは絶対に美味しい予感がします。駅そばもいいけど、街のお蕎麦屋さんも外せません。シャッターのペイントが街道らしくっていいですね。
「小田急江ノ島線の鶴間駅」の踏切を渡り街道を進みます。「ライラック通り」と名前がついていて札幌を連想しますが、こちらも紫の花が咲くときれいな眺めになるのでしょうね。
「矢倉沢往還の案内石碑」が、またまた登場です。こちらは「まほろば連邦」の加盟国、茨城県大和村より産出される御影石で出来ているとのこと。
直線が続く街道をしばらく歩いていくと、右手に私も大好きな森永のチョコモナカ「ジャンボ」の看板が見えてきました。窓がない倉庫のような建物、この中で作られていたんですね。我が家の冷凍庫には常備されていますので、この思いを胸に帰ったら食べましょう、一味違うと思います。
左手に見えてきた広大な森は、「泉の森」で大和水源地を中心に広がる公園です。約900種の植物や約50種の野鳥が見られるといいますから規模の大きさが分かります。
街道は分かれて右手の旧道に入り、すぐ先が「西鶴寺」で日蓮宗の寺院。階段を上ると本堂、裏手の墓地もきれいに整備されており、最近よく見かける樹木葬墓地の幟も出ています。
墓じまいが大変なご時世ですから、子供たちのことも考えると選択肢の一つとしては有りですね。本堂横には「矢倉沢往還の石碑」が建っており、前の路が大山街道だと分かります。
鶴間駅から一直線だったの路も国道246で遮られており、少々迂回となり街道に戻ることになります。左手奥が相鉄線の「さがみ野駅」となります。駅前が昔懐かしい雰囲気のショッピングモールになっています。
LIFEといえば緑とオレンジのクローバーマークを想像してしまうので、看板を見たとき???と思ったのですが、こちらは「相鉄ライフ」さん、別のスーパーでした。昔よく行った、スーパーダイエーに雰囲気が似ていてを懐かしさを感じてしまいました。なぜか落ち着くんですよ、この雰囲気。
本日はここまでです。前回から2カ月近く間が空いてしまったのである気については少々心配していましたが、問題なく目的地まで歩くことができました。下鶴間宿は規模は小さいながらも基本要素がギュッと凝縮された感じで、昔の面影を偲ばせる魅力ある宿でした。
この辺りまで来ると、まったく土地勘がない場所なので見る景色すべてが新鮮、脳みそが喜んでいます。次回はいよいよ海老名に入ります。関東の方には海老名SAで有名ですね。そしてお隣の厚木を目指す予定です。