大山街道 その8 本厚木→伊勢原
大山街道その8は、本厚木→伊勢原
距離は16,9Km、所要時間4:50時間 22,989歩、消費カロリー1.719kcal
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本厚木→愛甲石田
本厚木駅南口からスタート、北口とは違い人も車も少なくて落ち着いた感じ。旭町三丁目の交差点めざし相模川方面に歩き、八王子街道に出たら右折します。すぐに上杉謙信が再興した「最勝寺」の門が見えてきます。
鉄の門は閉じられていますが、右手には大きな子安地蔵尊、左手には閻魔堂、正面には赤い大きな屋根が特徴の本堂を見ることができます。
すぐ先には「熊野神社」の鳥居、拝殿の後ろの銀杏の木が大きくて驚きです。樹齢500年と推定され幹の根元は直径3m余りとあります。古くは厚木村の総鎮守、この付近は熊野の森といわれ渡辺崋山の「厚木六勝」図に描かれており、崋山の石碑もありました。広くて開放的な境内は子供たちの遊び場になっています。
住宅街を少し入ると現在は「智音神社」と称している真言宗寺院だった智音寺があります。神仏分離令により廃寺となったようですが、天正年間に開山の古い寺院。呉服豪商六代目高部源兵衛が建てたという「鬼子母神堂」も再建されています。
八王子街道を離れて、左手に広大な敷地のソニーテクノロジーセンターを見ながら旧街道を歩きます。緑が続くふじみ公園の先、交差点のところに、まだ新しいと思われる「旧平塚街道」の石碑が建っています。第二テクノロジーセンター手前、道のわきには供養塔が見られますが、ずいぶん古いもので風化が激しい状態。
東名高速高架手前の大きな木々の中には「三嶋神社」が鎮座。拝殿横、しめ縄が巻かれた古木からはパワーが満ち溢れています。岡田村の鎮守で伊豆国三嶋神社「大山祇神」を勧請したという創建由緒が、戦時中に供出された鐘に刻まれていたとありました。
街道の矢倉沢往還石碑を過ぎて東名高速と並行して奥へ進むと「永昌寺」の案内が目に入ります。鰻観音とも呼ばれており、入り口には地蔵尊をはじめ時代を経た石仏が並びます。民家風の本堂は珍しいですね。
東名の高架を過ぎると「長徳寺」の山門です。大きな屋根の立派な本堂、きれいに手入れされた日本庭園、池がある庭は安らぎます。建立から八百有余年の浄土真宗の寺院で、本堂横には大きな鉄の羽釜が置いてありました。
街道沿いの並びには、同じく浄土真宗の「法徳寺」、本堂の柱や梁は1800年建立時のものが残してあるそうです。本堂横には親鸞聖人御像がいらっしゃいました。
街道を進み岡田の交差点を過ぎると12年に一度、寅年に開帳される「酒井寅薬師」の赤い屋根が見えてきます。お堂の前には道標とお不動様の姿も見られます。
隣が薬師堂を建てたこの地を領した山角氏が再興した「法雲寺」、代々の墓もあります。山角氏は小田原北条氏の重臣、戦国時代に開山したといわれる歴史ある寺院です。
国道129号を横断して「玉川の新宿橋」を渡ります。ここまできると大山もかなり近くなりますが、今日は朝から山頂には雲がかかっており望めません。右手にある「道祖神」を確認して大山に向かって一車線の道を進みます。
道路脇にぽつんと古いお地蔵さん、旧街道らしい風景です。小田原厚木道路を越すと人家も増えてきて愛甲石田が近くなってきました。真っすぐ続いた道も左へカーブとなります。「大山道碑」が左手に、続いて右奥に大山道と刻まれている「庚申塔」が並びます。
右手の高台に見えてくるのが「大巌寺」、先へ進むと六地蔵が迎えてくれ、先に本堂があります。七沢広沢寺四世玄堯和尚が開山、1700年代にこの地に移転とのこと。あつぎ十二支寺社巡りが開催されているらしく、こちらは戌との案内がありました。
お隣には臨済宗の寺院「円光寺」、急な坂の上にある山門は大きな楼門で葵の御紋が光ります。この地を領した愛甲三郎についての説明書きもあり、愛甲氏の居館跡ともいわれているそうです。確かに、この高台からは厚木方面も一望できますし、城を築くには立地がいい場所です。
この辺りは愛甲宿、宿場の雰囲気を感じながら街道を歩くと、創業慶応元年の暖簾がかかる豆腐店の前には豆腐桶をもった人形と井戸、豆腐は水がポイントですからね。でも、豆腐は大山豆腐まで我慢。お隣のお肉屋さんには「箱根山麓豚」という気になる看板もみられ、賑やかな雰囲気が漂っています。交差点脇には「庚申塔道標」もありましたが風化が進み文字が読み取れませんでした。
愛甲石田→伊勢原
愛甲石田駅前に和菓子屋さんの看板「愛甲亀もなか」の文字が踊ります。「幸月堂」さんの店内には自慢の和菓子がずらりと並びます。どれにするか迷ってしまいますが、看板にあった栗が一粒丸ごと入った「愛甲亀もなか」と抹茶あんが入った「愛甲三郎まんじゅう」を買って帰ります。丁寧な手作り感が街の和菓子屋さんのいいところですね。
踏切を渡り国道246沿いをしばらく進むと、右手に「浄心寺」入り口の立派な寺標です。参道の先には茅葺の風情ある山門、奥の本堂も大きな1574年開山の浄土宗の寺院。境内には不動堂もあり不動明王が祀られています。
先へ進み石田の交差点で国道246から分かれて、小田急線方面へ。線路の向こうに見える小高い丘は古墳の跡で小金神社が祀られています。線路沿いを進むと「藁の道祖神」、住宅街を進むと別の道祖神がありますが、かなり劣化が進んでいました。
成瀬小学校を過ぎたところに「白金地蔵」があります。建立されたのは1860年ですが、1996年に台風により倒壊し再建された新しいものとなっています。歌川を渡り県道を過ぎて新東名の高架を過ぎれば「下糟屋の道祖神」石仏群がみられます。
住宅街の先「普済寺」は臨済宗建長寺派の寺院、長い参道の先には横に広い屋根が特徴の本堂、そして必見は伊勢原市指定文化財の石造りの多宝塔。200年前幕府の命令により蝦夷地(北海道)に派遣された禅僧が七年の任期を終えて帰ってきた後に北海の地の安泰を祈願して建てたものだそうです。背景が大山というのが素晴らしいですね。
この辺りから糟屋の宿に入ってきます。長後街道を進み渋田川を渡ると左手が「大慈寺」太田道灌の菩提寺です。江戸城を築いた人物として知られる太田道灌、扇谷上杉家の優れた重臣で軍略化として、また、和歌にも情熱を傾け、文武両道の鑑として活躍しました。その有能さが為、主君が謀反を恐れ糟屋館で道灌を暗殺、死に際に「当方滅亡」と言い残したと伝えられています。
大慈寺を出て、渋田川沿いを進むと「太田道灌墓所(首塚)」があります。宝篋印塔と五輪塔からなる供養塔が祀られていました。川幅も程よい渋田川は水もきれいで魚が泳ぐ姿も見られ日本の田園風景という感じ、ゆったり時間が流れています。ここで、太田道灌を偲びながらしばし休憩。
下糟屋宿の中心あたりでしょうか、こちらに延喜式内社十三社の内の一社とされる「高部屋神社」があります。平安時代から鎌倉時代にかけて大山一帯を支配していた糟屋氏のゆかりと伝えられている神社。右手の梵鐘は1386年平秀憲により奉納された県指定の重要文化財、全体としてよく整った優れた作品です。
拝殿の上の彫刻が素晴らしい、両サイドには柱に巻き付いた龍、センターには亀と出会う浦島太郎、上には乙姫と竜宮城が描かれています。また境内には大山道の道標があり、これら庚申塔を兼ねた右の道標には柏尾道、藤澤道と彫られ、左の道標には「かしを道」「ふじさハ道」とあり旅人を見守っていたことがうかがえる歴史ある道標。
国道246号の下糟屋の交差点、右奥が丸山城跡で正面の高台には東海大学医学部付属病院が見えてきます。街道は病院の麓を直進する形になり、古い民家も残り小川も流れる旧街道らしい道が続きます。
街道は渋田川までやってきました。ここに架かっていた「せきど橋」のたもとにある「せきどめ地蔵」は古来より痰咳平癒の守護仏として崇められており、現尊像は1723年再建のもの。流れをせき止めて新田開発を行った場所、堰とめが咳とめになったといいます。
お堂の前には道標が立っています。大山に向かう大山街道と矢倉沢往還の分かれ道となるところです。ここから眺める大山も素晴らしい景観ですが、まだ山頂は雲に覆われています。別名雨降山と言われるだけあって山頂はこちらとは別世界が拡がっているのでしょうか?山頂への登山が待ち遠しい。
本日の予定はここまで、ですが、ここから伊勢原の駅までは1km以上離れているのであとひと踏ん張り。バス停があったので時刻表を見ましたが、まだ30分以上待つことになります・・・歩きます!
今回はロングウォークとなりましたが、都会の喧騒を離れて歩く街道歩きを満喫できたので思ったほど疲労感はありませんでした。庚申塔、道祖神、道標が至る所に見ることができ歴史を身近に感じられるコースでした。なんといっても大山が常に目の前にあり、場所によって見え方が変わるのが楽しく神様が宿る山という実感がわいてきます。
次回は、いよいよ大山のケーブル乗り場を目指して歩きます。