鎌倉街道 街道を歩く その2 歴史を訪ねる シニアの健康ウォーキング 新小平→分倍河原

鎌倉街道 街道を歩く その2 歴史を訪ねる シニアの健康ウォーキング 新小平→分倍河原 街道ウォーク
photo by ゆう
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鎌倉街道 その2 新小平→分倍河原

鎌倉街道その2は、新小平→分倍河原
距離は14,6Km、所要時間3:57時間 18,040歩、消費カロリー926kcal

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※スマホでも読みやすいように、改行が多くなっております。PCでは少々見づらくなっていることをご了承願います。

新小平→西国分寺

新小平駅から「住宅街を通る鎌倉街道」を進みます。途中の案内板には天平の昔(730年頃)から、府中の武蔵国府と前橋の上野国府を結ぶ東山道武蔵路が通っていたとあります。

鎌倉幕府が開かれてから鎌倉街道と呼ばれるようになったようです。前回歩いたコースにも久道の辻など史跡や地名が残っていました、千年以上の歴史を感じる街道です。

武蔵野線を過ぎて左手には小さな公園が、鎌倉街道公園となっています。「玉川上水」までやってきました。緑も多く、流れる水も澄んでいて気持ちがいい場所、別世界が拡がります。橋の名も「かまくらばし」。

住宅街を通る鎌倉街道
玉川上水
かまくらばし

「上鈴木の稲荷神社」の鳥居が右手に見えてきました。新田開発が行われてきたこの地域になくてなならない村人から大切にされてきた神社。境内には須賀神社と御嶽神社も祀られています。

旧五日市街道に出て右折すると上水本町の交差点、「猿田彦大神」が祀られています。猿田彦大神は“みちひらき”の神様、物事良い方向へ導いていただくようにお願いして府中街道を進みす。

上鈴木の稲荷神社
猿田彦大神

街道は国分寺市に入り西武国分寺線の「恋ヶ窪駅」となります。街道沿いには「厳島大弁財天」の祠が見えてきました。弁財天はインドの河川の女神、七福神でも知られていますね。

湘南江ノ島の弁財天や鎌倉の銭洗い弁天が関東の方には有名。こちらの弁財天、昔はこの地で水車業を営んでいた戸倉家にありました。水に関わる神様ですから納得です。水と農作物、神様は切り離せないもの。

恋ヶ窪ショッピングセンターを過ぎると旧道は左手に分かれるのですが、すぐ先の「西武線の線路」で道が分断されて行き止まりになります。府中街道の踏切を越してから左折して旧道に向かいます。

厳島大弁財天
西武線の線路で旧道は分断

「恋ヶ窪用水」沿いの旧道を進むと「恋ヶ窪分水跡」で、重要史跡として案内板もあります。玉川上水から分水された堀は規模が大きいもで、幅が上端部分で6~9m、深さが約5mもあります。

当時の素掘りのままだそうですが、江戸時代の土木技術はたいしたものです。飲料水や生活用水、田用水として大いに村人を潤したことでしょう。

街道沿いの左手には石段と鳥居、ここ「熊野神社」は新田義貞が鎌倉勢との戦の時に兵火に焼失したといいます。社殿は関東大震災や大東亜戦争など何度も修復を重ねてきた歴史ある神社。

恋ヶ窪分水跡
熊野神社 鳥居
熊野神社 拝殿

先へ進むと、街道右手が「東福寺」。開山は鎌倉時代初期、真言宗豊山派の寺院です。恋のつく地名、恋ヶ窪にあることから、福猫をモチーフにした「恋の鐘」が設置されていました。良縁を得られるパワースポット、縁結びを表した「恋まもり」もありました。

「恋ヶ窪用水」沿いを歩いて「姿見の池」へ向かいましょう。この用水のおかげで村の収穫量は倍増して暮らしも豊かになったそうです。

東福寺 本堂
東福寺 恋の鐘
恋ヶ窪用水

清らかな用水を見ながら進めば池に到着。姿見という素敵な名前の由来ですが、街道の宿場、恋ヶ窪の遊女達が自らの姿を映してみていたことからこの名前が付いたとか。確かに現在でも池の水は透き通っており、橋から覗き込むと私の姿も映って見えました。

また、こんな話も伝わっています。「鎌倉殿の13人」の一人畠山重忠と恋に落ちた遊女の悲しい物語です。重忠が西国で討ち死にしたと聞いた恋ヶ窪の遊女「夙妻太夫」、深く悲しみ池に身を投げてしまいました。ところが、この討ち死にの話、太夫に熱をあげる男がついた嘘だったのです。今も昔も嫉妬深いのは困ったものです。

姿見の池
姿見の池

この話も恋ヶ窪の地名の由来の一つとも云われているそうで、改めてこの地名が好きになりました。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で畠山重忠役は中川大志さん。イメージ通りで、あのイケメンとの恋の話かと思うとリアリティがあります。ドラマは、もう3年前なんですね。

府中街道まで戻って「西国分寺駅」に向かい、中央線の高架を越えれば武蔵国分寺公園となります。

恋ヶ窪用水
高架からの西国分寺駅

西国分寺→分倍河原

日本芸術高等学園の裏手に「東山道武蔵路遺構再生展示施設」があります。当時の道路を強化した痕跡など道路造成面を型取り作成されたもの、幅が12mあったといいます。

東山道武蔵路遺構再生展示施設
再現された当時の遺構

現在も歩道形式で保存再現してあります。幅広の歩道は壮観、車道より広いんです、そしてゴミ一つ落ちていません。左手には図書館、公文書館、市役所が続き環境も素晴らしい市民が守る文教エリア。

武蔵国分寺公園を見ながら進むと左手奥が「本村八幡神社」、祭神は応神天皇、境内社として祓戸神社、榛名神社も祀られています。

こんな幅広歩道は見たことがない
本村八幡神社

神社拝殿横に進むと国分寺の寺標があり、うっそうと茂る木々に囲まれた「国分寺薬師堂」へ続く道。国指定重要文化財の木造薬師如来坐像が安置されています。分倍河原の戦い(1333)で武蔵國分寺は焼失。新田義貞の寄進により薬師堂が再建(1335)されたとあります。

国分寺 薬師堂
国分寺 鐘楼

「国分寺仁王門」は入母屋造りの八脚門で存在感抜群、間口が9m、奥行が3.6mもあります。左右の仁王像は高さ約2.5mで1718年造立されたもの、いいお顔です。

国分寺 仁王門
国分寺 仁王像

「国分寺楼門」は板金葺で江戸時代の建築様式。米津寺(東久留米市)の楼門を明治28年に移築したもので、2階には16羅漢像が安置されているそうです。右へ進むと、万葉集の歌人達が好んで歌の題材とした植物、約160種を集めた万葉植物園もあります。

武蔵国と国分寺の寺標の先、唐破風の見事な彫刻は鳳凰でしょうか?見事です。「国分寺本堂」には、非公開ですが、阿弥陀如来が安置されています。

国分寺 楼門
国分寺 本堂
国分寺 本堂

楼門の先には「武蔵国分寺跡」が拡がります。鎮護国家を祈願して創建された武蔵国分寺は東西720m、南北550mの寺地を誇り、全国に数ある国分寺の中でも有数の規模。

金堂をはじめ講堂、七重塔、鐘楼、中門などがありました。奈良時代に聖武天皇が仏教の力で国を安定させるために諸国に国分寺の建立を命じたと習いましたね。疫病の恐怖は今も昔も変わりません。

武蔵国分寺跡
武蔵国分寺跡 奥の森が国分寺

東山道武蔵路を挟んだ反対側には「国分尼寺跡」があり、ここを通るのが「伝鎌倉街道」となります。国分僧寺には二十人の僧が配置されました、尼寺には十人の尼さんが配置されたそうです。

それぞれ距離を置きセットで建立されたのですね。尼寺の中枢部を構成する中門・金堂・尼坊礎石跡などを見ることができます。先には鎌倉街道の切通しが残り、西側に中世の伝祥応寺跡、東側には尼寺北方塚跡が残る雰囲気のある心安らぐ街道です。

国分尼寺跡
伝鎌倉街道

東八道路の先、正面には「東芝府中事業所」の広大な敷地が拡がり、エレベーターのタワーも見えます。左方向奥が武蔵野線の北府中駅ですが、ここは東芝北門から横街道で右方向へ歩きます。

「本宿小通り」でぐるりと敷地沿いに距離はありますが、がんばって歩けば甲州街道と旧甲州街道の二股にでます。足が辛くなってきましたがゴールまではあと少し、旧街道をラストスパート。

京王線の踏切を過ぎて右折すれば分倍河原駅です。ロングウオークとなりましたが、何とか無事到着。

東芝府中事業所
本宿小通り
分倍河原駅

恋ヶ窪の悲しい恋物語と美しい水をたたえる姿見の池、天平の偉大な日本の歴史を感じることができる東山道や国分寺、新田義貞の痕跡も見られる学び多き街道歩きとなりました。

次回は多摩川を越えて関戸宿、分倍河原古戦場に向かいます。

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