日光街道 その2 南千住→千住宿→竹の塚
日光街道その2は、南千住→千住宿→竹の塚を歩きます。
距離は16,5Km、所要時間は4:50時間 22,357歩、消費カロリー1211kcal
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南千住→千住宿
日光街道2回目は「JR南千住駅」からのスタート、駅前には矢立の句を詠む「芭蕉像」。1689年3月27日、ここ千住の地から奥の細道の旅へと出立したとの案内があります。
「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」是を矢立の初として・・・なかなか風流なスタートとなりました。
駅前の道を日光街道に向かって進みます。この通り、標識にはコツ通りと書かれています。カタカナの通り名は珍しいと思っていたのですが、小塚原のコツから来ているそうで山谷通りとも呼ばれています。
国道に合流地点には大きな鳥居が見えてきました。平安時代創建の「素盞雄神社」(すさのお)、江戸名所図会では飛鳥社小塚原天皇宮と紹介されており、「てんのうさま」とも呼ばれています。
桃まつり開催中で、社殿などには時代物のひな人形が多数展示されていました。3月3日を過ぎても4月上旬の桃の花が咲く頃まで飾ってあるそうです。
住環境が変わりお家で登場する機会も少なくなった段飾り、晴れ舞台として場所が提供されているということです。何とも素晴らしい話ではありませんか。雑誌やテレビで紹介される階段を埋め尽くす118段ひな壇飾りは、東伊豆稲取の素戔嗚神社で行われるものですが、こちらも負けてはいませんよ。
境内には御祭神が光と共に降臨された霊石、「瑞光石」が祀られています。また、奥の細道矢立初めの句碑が庭に再現された千住大橋とともに建っていました。
数多く神社を巡っていると狛犬に目が行くようになります。こちら社殿に向かって左側の狛犬は子を従えた尾っぽが見事な凛々しいお姿、思わず見とれてしまいますね。
街道沿いを進みすぐ先、参道の奥に緑に包まれた浄土宗の寺院「誓願寺」があります。増上寺の名僧、18世定誉隋波が天台宗を浄土宗に改めた家康ゆかりのお寺。
住宅地を進むと、奥まった突き当りにあるのが由緒ある「熊野神社」。創建は1050年と古く、1594年には、大橋を架けるとき奉行が成就を祈願。橋の完成にあたり残材で社殿の修理を行う、これが以後慣習となります。
さあ、その「千住大橋」をわたりましょう。家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。千住宿の北と南をつなぐ江戸の出入り口、現在の橋は昭和2年竣工。ここで南千住とはお別れ、北千住へ向かいます。
橋を渡り終えると左側が「大橋公園」、奥の細道「矢立初めの地碑」があります。行程図の大きな案内ボードもあり、芭蕉推しの足立区の姿勢がみてとれます。私の田舎、北陸地方も描かれています。
奥の細道は私の実家の側も通っているので愛読書。「月日は百代の過客にして・・」からはじまり、旅立ちでは「千住という所にて船を上がれば、前途三千里の・・」と続く奥の細道、このスタート地点に立てたこと、ここで多くの人々に見送られたのかと思うと、感慨深い気持ちです。
矢立とは筆と墨壺を組み合わせた携帯用の筆記道具、旅日記の書きはじめを矢立初めと呼ぶところがなんとも風流です。川沿いに降りると、堤防の壁面には芭蕉と門人曾良の画や広重の大橋の画が紹介されてます。
少し奥にあるのが926年創建の千住では歴史の古い「橋戸稲荷神社」です。後ろ足を蹴り上げたポップなお狐様が迎えてくれます。区内唯一の土蔵造りの本殿は扉を開くと左右に左官の名工「伊豆の長八」作の雌雄の狐と稲穂の漆喰の彫刻が見られます。
国道に戻り少し先で旧日光街道が分かれます。この分岐点に千住宿「奥の細道プチテラス」があり、矢立を手にした「芭蕉像」がいらっしゃいます。足下の敷石はやっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石とのこと。
京成線のガード手前には「元やっちゃ場南詰の碑」があり、やっちゃ場の由来、セリ声がやっちゃい、やっちゃいと聞こえてくる場所(市場)からきたと案内書きがあり、街道の両側に三十数軒の青物問屋が軒を並べたとあります。
歴代将軍が葛飾の小菅御殿への行き帰りや鷹狩りの帰りに立ち寄られた長床茶屋、やっちゃ場の地碑、青物問屋柏屋、旧日光道中、是より西へ大師道の道標を確認して旧道から国道方面に向かいます。
国道との合流点が「河原稲荷神社」となります。足立区内最大の狛犬が鎮座しています。現在は国道側が正面ですが、昔はこちら旧日光街道側が正面でした。この狛犬は、なんでも大きなものが好きな、やっちゃ場の旦那衆が造り上げたもの。
浅草寺のお隣、浅草神社の狛犬も同じ手法のノミ捌きで作者は同じではないかと言われているそうです。朱色に塗られた社殿もやっちゃ場の守護神らしく立派。境内には千住七福神めぐりの福禄寿がいらっしゃいます。
旧街道に戻ると交差点の先に見えてくる大きな山門は、浄土宗「源長寺」で、立派な仁王像がいらっしゃいます。本堂には葵のご紋、扁額には増上寺の文字もみてとれますので、徳川ゆかりの寺院であることが分かります。街道沿いですから、さぞかし賑わったことでしょう。
「千住ほんちょう商店街」のゲート、左手の信用金庫の入口にはゴールドの芭蕉像が。先へ進むと「千住宿問屋場跡、貫目改所跡の石碑」があります。品川宿にもありましたが、幕府が街道往来の荷物の重さを検査するために問屋場に併置した機関です。
街道からハローワーク足立の方へ進むと突き当りの風格ある山門が「慈眼寺」です。家光公の時代に江戸城北方の祈願所として葵の紋の使用を許されたとあり、たち葵の紋が見られます。薬師堂や千住町消防組の碑も建てられています。
お隣は1332年開山の「不動院」、本尊は不動明王で、川魚の料理人たちが魚類の冥福を祈るために建立した包丁塚、千住宿旅籠屋一同が建てた遊女の無縁塔があります。
街道に戻り北千住駅の方へ向かうと「森鴎外旧居跡」があります。近代の文豪として知られている鴎外ですが、大学卒業後はこの地に開業していた父の橘井堂医院(きっせいどう)に住み、医療活動に従事していたそうです。
さらに駅の方へ進むと真言宗、本尊が閻魔大王の地蔵院、「金蔵寺」があります。1840年建立の天保餓死者供養塔、千住宿遊女の供養塔があります。五十五軒の旅籠のうち遊女屋が三十六軒あったといいますから、さぞかし賑わったことでしょう。
街道の反対側には朱塗りの山門が見事な「勝専寺」、赤門寺と呼ばれている京都知思院を本山とする浄土宗の寺院。江戸時代、ここに徳川家の御殿が造営され秀忠、家光、家綱の利用があったとあります。木造の千手観音立像は千住の地名の起源の一つとされる伝承を持つともあります。モダンな造りの本堂も朱に塗られていました。
北千住駅前通りを過ぎると「宿場町通り」として賑わいを見せています。千住宿本陣跡の案内ボードには本陣がこの辺りで、敷地は三百六十一坪であったとあります、かなりの大きさですね。また、明治になり遊女を置いていい旅籠が禁止となり、千住芸妓組合が成立し、その見番がこの地に置かれたともあります。
旧街道から一本裏通りに入ると、千葉氏により1307年に創建された「千住本氷川神社」です。朱塗りの本殿も色鮮やかで立派ですが旧社殿も残されています。千鳥破風と唐破風が重なり、龍の彫刻が見事な屋根の曲線も美しい社殿。
旧道に戻り角の和菓子屋「たから家」さんによっておみやげのお買い物。下町の和菓子屋さんには手ごろなお値段で草餅や桜餅がならびます。
少し先、千住ほんちょう公園には千住宿史跡・旧跡の大きな案内図と「千住高札場由来解説板」があり、明治の初期までは千住宿の入口、出口のところに設置されていたとのことです。
街道は荒川に近くなってきました。左側、玄関の中に絵馬屋と書かれている古い建物があります。こちら「吉田家」は江戸中期より絵馬をはじめ地口行燈や凧などを描いてきた際物問屋さん。神社などでの願掛けでお馴染みの絵馬、美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬は千住絵馬とよばれています。
お向かいも立派な建造物があります。こちら「横山家住宅」は伝馬屋敷の面影を今に伝えている足立区の有形民俗文化財。横山家は江戸時代から続く富裕な商家で伝馬を負担していた、百数十年の歴史がある地漉紙問屋さんです。
千住宿→竹の塚
すぐ先の「かどや」さん、知る人ぞ知る1948年創業の人気のお団子やさん。「槍かけだんご」は焼きのみたらしとあんの2種類、上新粉で作られた団子はやわらかで、絶妙なつき加減。みたらし餡は炭焼きの香ばしさと甘さが程よく、あんも甘さ控えめな上品な仕上がりになっています。お家まで待てなくて、荒川河川敷で頂きました。とろけるおだんご、手作りの価値ある逸品を是非お召し上がりください。
荒川土手の手前、東へ旧水戸佐倉道・北へ旧日光道中の道標を過ぎて左へ入れば「安養院」の大きな山門と脇の青面金剛が見えてきました。
鎌倉時代創建といわれる真言宗の寺院、小石で叩くと願いが叶うという1699年建立の「かんかん地蔵尊」があります。叩かれ過ぎてお顔がすり減ってしまって、何だか可哀そう。でも願いは叶えたいのでそっと叩かせて頂きました。
境内の見事な松は樹齢500年前後、観音堂、そして芭蕉の句碑の後ろに、本堂と並んで見事な唐破風屋根の建物があります。こちらはキングオブ銭湯として有名だった「大黒湯」が閉店となり移築されたもの。
住職さんが関東大震災からの復興の願いが込められた足立区の宝を何とか残したいと発案、多くの人々のちからで実現したプロジェクトだそうです。フォルムも彫刻も素晴らしい宮大工さんの魂がこもった建物でした。
目の前には荒川土手と黒塗りの素敵な建物が見えてきました。こちらは「名倉医院」と看板が掛けられています。
整形外科とありますが、関東一円に骨接ぎで有名な医院、「名倉といえば骨接ぎ」の代名詞になるほどとのこと。また当主は俳諧などの文芸を嗜み、森鴎外や岡倉天心とも親交があり、美術や文化の遺産を伝えた名家。
ここから堤防を上って歩きます。今日は区民マラソンも開催中で河川敷が賑やか。今まで見てきた神田川や隅田川と比べても規模が違います。この川幅には圧倒されますが、この放水路がなかった昭和以前の洪水被害が甚大だったことが想像できます。
上流は中山道の街道歩きで訪ねた熊谷近郊の荒川、元荒川や入間川など荒川の歴史をもっと知りたくなってきました。
千住新橋を渡り、少し上流に向けて歩くと家康公の江戸入府にともない開創された日蓮宗の寺院「善立寺」があります。ガラス張りの本堂に続く長い階段とシンメトリーの近代的な造りの芸術性に富んだ建物が目印、こちらを右に曲がり旧日光街道を更に進みます。
道路は一車線で、旧道の趣が続きます。いなり寿司専門という気になる看板が目に入ってきました。「藤寿司」さんは昭和三十四年創業以来、いなり、玉子、伊達巻、太巻き、この道一筋のお寿司屋さん。気が付けば奥様はもう店内、帰ってからの楽しみが増えそうです。
先へ進みましょう。左手には耳の病が治るという、耳のお不動様「石不動尊」です。堂内に石造耳不動尊像が安置されており、堂前には明王院への道標と地蔵尊、なぜかヘッドフォンが。やはり、耳に関係があるということか。
街道から一本裏へ道を入っていくと、住宅地の真ん中に「佐竹稲荷神社」が現れます。江戸時代は秋田藩佐竹氏が所有した約五千二百坪の私邸で、立派なお屋敷があったそうです。
屋敷内にあったのが、屋敷神の稲荷神社。江戸で火事が起こると秋田藩関係者の避難所としても利用されました。
街道は東武スカイツリーラインの梅島駅横を通って先へと続きます。しばらく歩くと右手に「将軍家御成橋 御成道松並木跡」と随分古そうな「安穏寺」の石標が立っています。こちらから左奥へ進んでいきましょう。
葵のご紋の大きな幕が掛かった仁王像が守る山門が現れました。日蓮宗「国土安穏寺」の創建は1410年で、秀忠、家光が巡遊の折の御膳所。1624年に家光公より現寺号を賜り徳川家祈願所位牌安置所となったとの由緒です。将軍お手植えの松もあるといいます。
街道沿いに参道の案内、「鷲神社」参道とあります。奥へ歩いていくと玉垣に囲まれた広々とした敷地があり、先には鳥居、正面には神明造で大きな千木が印象的な社殿が見えてきました。
古代、この近くは海岸線でした。日本武尊がこの場所で先着の神々を浮島明神として祭祀し、尊を称え大鷲尊と唱えたといいます。
マツケン演じる暴れん坊将軍といった方が馴染みが深い、八代将軍吉宗公が御成になられて、座られたという将軍石、区内最古の学問書である島根学問書跡があります。
祭礼時に神楽殿で奉納される島根ばやし、島根神代神楽は足立区の登録無形民俗文化財となっています。
街道に戻り増田橋五差路の増田橋道標を過ぎれば本日のゴールの竹ノ塚の駅ですが、最後にもう少し足を延ばします。渕江小学校手前、右に入る小さな小路が流山道で戦国時代以前に成立した道。
この小路沿いにある「保木間氷川神社」は戦国の武士、千葉氏の陣屋があったと伝えられています。大きな社号標の先、鳥居がいくつも並んでいます。
境内には、榛名神社、疱瘡神社、稲荷社、そして「天宇須女尊(あめのうずめのみこと)像」がいらっしゃいます。天の岩戸に隠れてしまった天照大御神が、岩戸を開けることになる踊りを披露した女神様。芸能関係や婦人病にご利益があるといわれています。
街道の戻り、少々分かりづらい住宅街の道を少し入るとひっそり「十三仏堂」が建っています。武蔵風土記には行基作の虚空蔵の木像を安ずとあるそうです。
十三仏とは寺院でも見られる、初七日から三十三回忌まで十三回の追善供養のために組み合わせた仏様。ちなみに、百か日は観音菩薩、三回忌は阿弥陀如来さまです。
お堂の中央逗子にある秋葉権現像は高村東雲作の銘、上野の西郷さんの銅像の作者としても有名な高村光雲の師です。小さなお堂ですが多くの仏さまを守護している貴重な存在。
本日はここまで、舎人公園通りから竹ノ塚センター通りを進み、にぎやかな商店街を抜けると竹ノ塚駅に到着です。
北斎の富嶽三十六景で3枚も浮世絵に描かれている千住宿、往時の名残りを多く残しており、芭蕉や家康ゆかりの旧跡も多くて街道歩きの醍醐味が味わえるコースでした。
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