中山道 その1 日本橋→板橋
中山道その1は、日本橋から→神田→本郷→白山→巣鴨→板橋を歩きます。
距離は16,2Km、所要時間は4:20時間、18,863歩、消費カロリー904kcal
※画像はクリックすると拡大でご覧いただけます。
日本橋→本郷
日本橋を訪れたのは「甲州街道を歩く」の初回、1月の厳しい寒さのなかでした。
季節は変わり、まもなく5月。
温暖な街道歩き日和の今日、「中山道を歩く」初回のスタートです。
再び素晴らしい橋の装飾柱に魅力され、「日本国道路元標」を確認し「日本橋魚河岸跡」へ。
日本橋の川沿いにあった魚河岸。
関東大震災で築地に移るまで江戸時代から大いににぎわい、一日に千両の取引があるともいわれたそうです。
お向かいは日本橋三越、越後屋跡。
今も丸に越の三越マークは老舗の証としてご進物に重宝されていますね。
路地を入っていきましょう。「三浦按針屋敷跡碑」があります。
漂着し、家康の通商顧問になったウイリアム・アダムス、教科書に出てましたね。
ワンブロック歩くと「芭蕉の住居跡碑」、江戸に出て八年間、ここ小田原町(現室町)の小沢太郎兵衛の借家に住んでいたとの案内と句碑が。
我らが「日本銀行」は金座跡になります。
桃の節句や端午の節句の人形を商う店が軒を連ね、市が立ち日本の人形文化を育んだ町、「十軒店跡」。
日本橋から初めてわたる橋、今はなき竜閑川にかかる「今川橋跡」を過ぎ神田方向へ。
JR神田駅のガードをくぐりぬけて北口から須田町交差点を過ぎてしばらく歩きます。
左手一帯が、東京都選定歴史建造物が点在するエリアとなります。
おしるこなど甘味処「竹むら」、あんこう鍋「いせ源」、鳥すきやき「ぼたん」、手打ちそば「神田まつや」「神田やぶそば」など、名店の歴史を感じさせる建物。
風情あるこれらのお店でいただくお料理はさぞかしおいしいことでしょう。
池波正太郎さんの愛したお店は中華街シリーズで何件か紹介させていただきました。
むかしはこの須田町あたりは連雀町だったことや、この界隈のお店も登場します。
というのも、この一角に、明治・大正のころから営業をつづけている「食べもの屋」が四軒もあるからだろう。この一角は、ふしぎに、太平洋戦争の空襲にも焼け残り、むかしの東京の町の香りを辛うじて残していることも、理由の一つになっているのだろう。
食卓の情景 池波正太郎 p331
先ず「藪蕎麦」である。
東京が誇り得る数少ない名店の一つだ。
私がよく足を運ぶ神田・須田町の蕎麦屋「まつや」には、この一品がメニューにあって、それがまたうまい。
むかしの味 池波正太郎 p31
うまいといえば「まつや」で出すものは何でもうまい。
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「まつや」の太打ちと柚子切り・・・ことに太打ちの蕎麦は、むかしの江戸の蕎麦を目前に見るおもいがする。
中央線沿いのレンガが美しい道が御成道、将軍が参詣などで通る道筋です。
神田郵便局交差点を右折すれば昌平橋、神田川を渡り「神田明神」へ向かいましょう。
大きな鳥居とあま酒の天野屋さんが目印、参道を進みます。
朱塗りの山門が迎えてくれます。
神田明神で親しまれていますが正式名称は「神田神社」。
730年の創建で、三の宮御祭神は平将門。
神田祭は深川祭、山王祭とともに江戸三大祭りとよばれ江戸時代には城内に入り徳川将軍が上覧したため、御用祭とも呼ばれていたそうです。
規模の大きさにも驚かされますが、外国人観光客をはじめ参拝者が絶えない江戸の総鎮守の名に恥じない存在感があります。
歴史の重みは一朝一夕で出来るものでないことを肌で感じられる神社。
神田明神のお向かいにあるのが「湯島聖堂」。
五代将軍綱吉が儒学の振興を図るため創建、その後11代将軍家斉が昌平坂学問所を併設しました。
こちらには孔子廟正殿の大成殿をはじめ、仰高門、杏壇門、入徳門、明神門、孔子銅像がご覧になれます。
今日まで植えつがれている櫂の樹は、孔子の墓所に植えられている名木、書道の楷書の語源ともなったと言われているとの説明書きがありました。
都心のど真ん中に居ることを忘れさせてくれる静かな時間が流れる空間。
本郷→巣鴨
東京医科歯科大学を左に見ながら北へ進むと本郷三丁目の交差点。
角には「本郷も かねやす までは江戸のうち」と川柳にうたわれた「かねやす」があります。
江戸時代、乳香散という歯磨き粉を売り出し賑わったそうです。
平安時代末期に存在していた「薬師堂」。
徳川四大将軍家継公の御声がかりで藤堂高虎を後ろ盾として真光寺を再興、其の時お堂にお迎えしたお薬師様が慈覚大師手彫りの薬師像と言われています。
府内にマラリアが蔓延したところ、お告げを授かり広めた結果、治まったというありがたいお薬師様。
同じ真光寺にあった十一面観音菩薩は30M先。
同様に真光寺境内にあった「北野天神」とよばれた「桜木神社」も横にありますので参拝していきましょう。
社号の桜の文字から「サクラサク」神社として呼ばれているそうです。
御祭神は学問の神様「菅原道真公」
「サクラサク」は合格通知電報の文言、合格通知代行サービスが懐かしい。
合格の絵馬が多く掛けられています。
受験生には強い味方の神社。
すぐそばには日本が誇る最高学府があります。東京大学へ向かいましょう。
赤門の名で広く知られているこの門、加賀藩13代藩主「前田斉泰」が徳川家斉の娘溶姫を正室に迎えた際、建立された御守殿門で国の重要文化財です。
赤門の向かい側の少し奥に本山が知恩院、浄土宗の「法真寺」があります。
1876年、すぐ隣に樋口一葉の家が越してきて幼少の頃を過ごしたそうです。
「ゆく雲」の中にある御梵刹さま(おんてら)との一文は、この法真寺。
一葉供養のための一葉忌が毎年11月23日に厳修されています。
すぐお隣は曹洞宗の寺院「喜福寺」、本尊は十一面観世音菩薩、北条早雲が休憩した記録があるそうです。
東大の正門を右手に見て先を進むと本郷追分、直進すると日光御成道、中山道は左。
現在も残る角の高崎屋酒店は宝暦年間の創業(1751年)という歴史が。
追分一里塚跡の案内板も立っています。
白山一丁目の交差点を過ぎると「大円寺」。
八百屋お七を供養する「ほうろく地蔵」があります。
お七の罪業を救うために熱した焙烙(ほうろく・素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら集熱の苦しみを受けたお地蔵様との説明があります。地蔵尊のまわりには多くの焙烙がお供えされています。
墓所には幕末の砲術家高島秋帆のお墓が。
団地で有名な板橋区高島平の名前も、この高島からついていることでも知られています。
路の反対側を少し下ると円乗寺。八百屋お七の墓があります。
放火の罪を背負ったことと、名前くらいは知っていましたが、数えで16歳というのは知らなかった。
この歳で恋人に会いたい一心でつけ火をしたなんて、そして火あぶりの刑で処刑されたなんて・・・
しっかりお参りしていきましょう。
更に下ると「白山神社」、天暦年間(947~957)に加賀一宮白山神社を本郷一丁目に勧請したと伝えられ、1655年に現在地に移った将軍家の信仰が篤い小石川の鎮守。
東京十社の一つ。
甲州街道に戻り東洋大学の白山キャンパスを左に見ながら進むと千石駅前で白山通りと合流となり巣鴨方面に向かいます。
JR巣鴨駅が前方に見えてくると、「徳川慶喜巣鴨屋敷跡」。
大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後、61歳の時この地に移り住み、庭の奥は水戸に因んだ梅林になっていたそうです。
幕末の行動に対しては色々と言われている慶喜さんですが、司馬遼太郎さんの書かれた「最後の将軍」の慶喜像が私にはしっくりきています。
慶喜の両眼がひらききっている。
最後の将軍 司馬遼太郎 p258
そのまま薄青い涙がとめどもなく噴きだし、顔をぬらしていた。
京を離れて以来、慶喜がその家臣に最初に見せた涙であろう。
「錦旗が出た」とのみ慶喜はいった。
三日に開戦し、五日に錦旗が出、薩長が官軍の名を得た。
薩長軍が官軍である以上、慶喜は賊である。
山手線の線路を渡ってすぐ「染井吉野碑」。
あの桜のソメイヨシノは江戸時代にこの地の植木屋が品種改良し明治時代に広まったんですね。
私は花より団子。
大島だ彼岸だ河津だと言われても違いはよく分かりませんが、お花見は毎年楽しみにしています。
巣鴨→板橋
巣鴨の甲州街道沿いの商店街を進むと左奥に大きなおじぞうさんが見えてきます。
「真性寺」です。
江戸六地蔵の一つ、銅造地蔵菩薩坐像が鎮座しています。
甲州街道歩きの際に訪れた内藤家の菩提寺太宗寺さんにもいらっしゃいましたね。
こちらは第四番目で1714年に造立され2008年からの修理を経て今に至っています。
巣鴨地蔵通商店街のゲートから旧中山道に入ります。
和菓子屋さんにおせんべい屋さん、衣料店にうなぎ屋さん、レトロな雰囲気の喫茶店、一躍有名になった赤パンツのお店など、どこも多くの人で賑わっています。
「高岩寺」の本尊は「とげぬき地蔵」で知られる延命地蔵菩薩で秘仏。
和紙に描かれいる地蔵尊の御影、これを痛いところに貼ったり、のどに骨が刺さったときに飲んだりすると治るといわれています。
「洗い観音」は水をかけて自分の悪いところを洗うと治るという信仰が今も続いており列が絶えません。
現在の聖観世音菩薩さまは新しい仏像になっています。
前の仏像はタワシで長年洗われてすり減ってしまったとのことで、現在はタワシではなくタオルで洗うようになっております。
タオルは100円で販売されていました。
商店街を抜けると都電荒川線の庚申塚駅が見えてきます。手前にあるのが「猿田彦大神庚申堂」、庚申塔が祀られています。
ちょうど都電が来ました、のんびり都電で散策もいいですね。
踏切を超すと、すぐに「延命地蔵尊」。
江戸時代の庚申塚付近には近辺で行き倒れた人馬の共同墓地があり、墓標として延命地蔵が建立されたとあります。
旧道らしいのんびりした風景が続きます。
この地域は江戸への野菜の供給地として知られており、この街道沿いに野菜の種子を通行人等に販売する種子屋が店を構え「種子屋通り」として発展してきました。
今も残っている趣のある建物は「東京種苗株式会社」、歴史を感じさせる建物です。
すぐ隣には大正大学の「すがも鴨台観音堂」、巻き貝のさざえに似ているところから、さざえ堂の愛称で呼ばれています。
堂内の回廊は往路と復路が交わることのない二重螺旋構造になっています。
滝野川の街を過ぎれば本日のゴール「JR板橋駅」。
駅前には「近藤勇墓所」があります。
近藤は板橋宿手前の刑場で官軍により斬首処刑され首級は京都に送られ胴体はこの場所に埋葬されたそうです。
こちらの供養塔は隊士の一人、永倉新八が発起人となり造立、副長土方歳三の名も記されています。
甲州街道歩きでは、新選組にまつわる史跡や近藤勇生誕の地を見てきただけにシンパシー感じます。
中山道の街道歩きも甲州街道同様、歴史の痕跡が多く残っており楽しいウォーキングに。
都心にも江戸時代の様子が感じられる街並みやお店が残っていることを発見できました。
まだまだ知らない場所や知らない事が身近にも沢山あります。
次回は板橋宿から荒川を越えて埼玉県は蕨宿にむかって歩きます。
どのような風景に出会えるかワクワクします。
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