中山道 その2 板橋→戸田公園
中山道その2は、JR板橋駅から→仲宿→志村→船渡→戸田→戸田公園を歩きます。
距離は16,1Km、所要時間は4:24時間、17,846歩、消費カロリー868kcal
※画像はクリックすると拡大でご覧いただけます。
JR板橋駅→板橋宿
その2はJR板橋駅からスタート。
前回訪れた近藤勇墓所から旧中山道に入り板橋宿に向かいます。
国道17号を横断すると「板橋宿平尾」のゲート。旧道に入る前に「東光寺」に寄っていきましょう。
関ケ原では西軍主力として戦った武将「宇喜多秀家」の墓があります。
関ヶ原の後、八丈島に流され83歳で没しました。
こちらは、明治になって板橋に移り住んだ子孫が建てた墓所。
秀家の妻は秀吉の養女(前田利家の娘)。
板橋には加賀前田家の下屋敷。
加賀前田藩と板橋、そして宇喜多家の深い関係がうかがえます。
他にも板橋区の有形文化財に指定された庚申塔や石造地蔵菩薩像があります。
旧中山道を歩くとすぐ右奥に「観明寺」の門、この赤門は加賀屋敷内の通用門を移築したもの。
室町時代の創建といわれる真言宗のお寺で、ご本尊は聖観世音菩薩です。
明治6年、町の繫栄祈願のために成田山新勝寺から不動尊の分身を勘請。
境内に鎮座する稲荷神社は加賀藩下屋敷に祀られていた三稲荷の内の一社です。
参道には都内最古の庚申塔も。
すぐ近くに板橋宿平尾「豊田脇本陣跡」の石碑と案内がありますが、今は住宅で当時の面影はありません。
幕末から明治にかけての当主、喜平治は煎茶道に傾倒し「鉄蕉」の号を持つ茶人。
下総流山で捕らえられた近藤勇は処刑されるまでこちらで幽閉されていました。
近くにある「いたばし観光センター」には歴史資料やパネルが展示されています。
板橋宿の歴史が良く分かりますので立ち寄られることをお勧めいたします。
中山道は「板橋宿仲宿」に入ります。
すぐ右手、古いレンガと土蔵造りの建物が築100年の「板五米店」さん。
板橋区有形文化財に登録され、宿場町の雰囲気を伝えるスポットとなっております。
現在、日常使えるカフェとして営業し、かまどで炊くお結びが人気。
境内が幕府公用伝馬の「馬つなぎ場」で、多くの絵馬を保有している「遍照寺」。
訪ねましたが、改築中で立ち入り禁止。
多くの馬頭観音が残されています。
次の機会のぜひ訪れたいと思います。
少し歩くと飯田新左衛門家
「板橋宿本陣跡」の案内があります。
江戸から近距離にある板橋宿では宿泊に用いられることは少なく、主に休憩所として利用されていたようです。
家数は五百七十三軒、本陣一、脇本陣二、旅籠五十四軒、上宿、仲宿、平尾宿の三宿で構成されたとあります。
さぞかし賑わったことでしょう。
飯盛りも盛んだったとか。
いい感じの和菓子屋さんがありますので寄っていきましょう。「新月堂」さんです。
北海道十勝産の上質な小豆に求肥餅が入っている板橋の橋をもなかの形にした「いたばし最中」。
他にも、ずらっとウインドウに並んだ和菓子もおいしそう。
最中と栗きんつば、田舎まんじゅうも購入、帰宅後のお楽しみです。求肥餅と甘さ控えめな餡が見事にマッチング。
謙虚で素朴な味わいが郷愁を誘います。
コーヒーと洋菓子もいいけど、日本茶と和菓子もやめられませんね。
血糖値を気にしつつ、今日も適量を美味しくいただきました。
街道から路地を少し入ると真言宗豊山派の寺院「文殊院」。
延命地蔵を祀るお堂を寺院としたと伝えられており、山門のすぐ横にお地蔵さまが。
入ってすぐ左手の閻魔堂には閻魔大王、墓地には宿場時代の遊女(飯盛女)の墓も。
足腰の守り神として知られている子の権現もあります。街道歩きの身としてはしっかりお参りしていきましょう。
「この先も元気に歩けますように」
こちらは江戸初期の創建で歴史も古く、本陣飯田家の菩提寺でもあります。
飯田脇本陣跡、問屋場跡、自身番所跡を過ぎるといよいよ地名にもなっている板橋。
江戸時代の板橋は太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16,2m)、幅3間(5,4m)あったそうで、現在の橋は昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものとのことでした。
この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを仲宿、平尾宿と称し三宿を総称して板橋宿となります。
橋を渡って上宿へ入っていきましょう。
「中山道板橋宿上宿碑」は交番脇。
板橋宿→志村
大きな木と白いのぼりが見えてきました。
「縁切榎」と呼ばれており穏やかではありませんが、多くの人がいらっしゃいます。
その名の通りで嫁入りの際には縁が短くなることをおそれて下を通らなかったとか。
皇女和宮下向の際には迂回路が作られたそうです。
ただ現在は、難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、親しまれています。
私は断酒を密かに願ってみました。
難しそうですね。。
願いを書く絵馬、なんと自動販売機で販売されておりプライバシー保護シール付き。
言われてみれば、絵馬には名前や住所まで書く方もいらっしゃいますのでこれは必要。
旧街道は環状七号線を過ぎると国道17号に合流となり、大通りを進むと本蓮沼の駅。
さらに進むと蓮沼氷川神社と別当寺であった「南蔵院」です。
蓮沼村は現在の浮間舟渡駅の西側にありましたが荒川の氾濫の被害を受けて高台にある現在地に移動。
「氷川神社」は蓮沼村の鎮守で御祭神は須佐之男命と奇稲田姫の命。
境内には蓮沼稲荷神社もあります。
国道に面して立派な門構えが「南蔵院」。
真言宗寺院でご本尊は十一面観世音菩薩。
享保七年に行われた八代将軍吉宗による戸田・志村原の鷹狩りに際しては御膳所となっており、吉宗が境内にある見事な枝垂桜に目を留め、櫻寺と名付けられたそうです。
護摩堂にはご本尊の不動明王、私たちの煩悩や悪魔・災いから救わずにはいられない大慈悲に満ちたありがたい役目を担っていらっしゃいます。
蓮沼ばかりでなく、志村庄をも代表する不動尊であったことから「志村不動尊」と称され、広く人々の参詣をあつめていました。
途中で1863年建立の庚申塔を確認して進んでいくと、国道の両サイドに見事な枝ぶりの大木と石垣。
「志村一里塚」で本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く第三番目の一里塚。
昭和八年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されました。
位置は変わらず、400年以上前からこの地にあり続けて現在に至っている貴重な史跡。
大通りにも関わらず、両側にきれいに残っている姿は往時をしのばせる後世に残したい大切な風景。
塚の横には欅を主に扱う原木商として明治二十二年に創業した「齋藤商店」の建物。
「活き粋 いたばし まちなみ景観賞」に選ばれ、登録文化財となっています。
志村→戸田公園駅
志村坂上の駅を過ぎると旧中山道に道が分かれます。先には「大山道標」と「庚申塔」があります。
中山道から霊山である富士山や大山へ向かう道、富士・大山道が分岐する場所。
この先が難所といわれた急坂の「清水坂」。
大きく左右に曲がっているので、中山道で唯一富士山を右手に一望できる名所であったとのこと。
坂を下った先には板橋宿と蕨宿の中間として合いの宿が設けられていたそうです。
坂を下って都営三田線のガード下を過ぎると一旦17号に合流し、志村三丁目の交差点の先で旧中山道に。
志村警察署を過ぎると新河岸川、志村橋を渡って右手に入れば「船渡の板碑群」。
これらの石造物は、鎌倉時代から室町時代末にかけて親や自身の死後の供養のために造立された供養塔。
荒川上流で産出する緑泥片岩(秩父青石)を板状に加工し、その最上部を山形に成形し、二条線を施す特徴があるとの説明書きがありました。
新幹線を右に見ながら、ようやく戸田橋で荒川越え。向こう岸が遠い。
昔は渡るのがさぞかし大変だったことでしょう。
橋を渡り終えて堤防を右に進むと、「中山道戸田渡船場跡碑」があります。
渡船場の家数は46軒、渡し口には渡船を取り仕切る川合所がおかれ、茶屋などが立ち並ぶ場所。
舟運の一大拠点としての機能も有し、戸田河岸場として幕府公認の河岸に。
五軒の河岸問屋があったそうで、さぞかし賑わっていたことでしょう。
当時の様子が残っている歴史の道を進むと、川岸に住む人々の氏神様のようになっている水神宮の碑がある「水神社」。
祭礼の時に飾られる獅子頭は市の指定文化財になっています。
昔は、その年にはじめて採れた胡瓜をこの水神社に供え、この後に荒川に流してからでないと泳ぐことができないとされていたそうです。
すぐ裏手に「地蔵堂」があります。
お堂はかなり古く市内最古の木造の建造物と思われます。規模からは不似合いなほどの大きな木組みを使用しており注目すべき点が多い建造物とありました。
旧中山道を進み菖蒲川を越えてオリンピック通りからJR高架沿いの緑地公園を行けば、本日のゴール戸田公園駅に到着です。
今回の街道歩きも多くの寺社仏閣や史蹟を訪ねることができました。
健康な身体のおかげで、たくさん歩くことも出来ました。
歴史を肌で感じられる時間、時代をつないでいくことの大切さを感じることが出来たウォーク。新たな気づきと感動に感謝です。
数百年も前の人と同じ場所で同じ風景を見ている自分。
宿場町では行き交う人々の声さえも聞こえてくるような不思議な感覚。
今も昔も変わらないであろう食の楽しみ。
歴史を学び体験し、自分を俯瞰的に見て再定義することは大切ですね。
その3は次の宿場、蕨宿から浦和宿へ。
新たな発見に期待しましょう。
↓↓中山道 街道を歩く その3はこちら
↓↓街道を歩く 準備編はこちら
↓↓甲州街道を歩く シーズン1 総集編はこちら