中山道 その4 北浦和→大宮
中山道その4は、JR北浦和→さいたま新都心→大宮→宮原を歩きます。
距離は14,2Km、所要時間は3:44時間、16,716歩、消費カロリー913kcal
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北浦和→さいたま新都心
その4はJR北浦和駅からスタート。
中山道方向に向かってしばらく住宅街を歩いていくと、大きな敷地。
街道側には立派な仁王門があり、参道には六地蔵が並んでお出迎えです。
こちらの「廓信寺」は浦和郷代官中村吉照が旧主高力清長、追福のために建立した浄土宗のお寺。
本尊の木造阿弥陀如来坐像は大阪城内仏であったものを徳川家から拝領したものとあります。
門前にサツマイモの女王「紅赤の発祥地」の案内があります。江戸時代以来、関東でサツマイモといえば川越で「アカズル」、「アオズル」という品種。
明治に入り農家の主婦が薄紅色の皮を持つ「八ッ房」の突然変異した形を発見、味もすばらしく「紅赤」と命名したそうです。
これが関東一円に普及、サツマイモの女王とうたわれるようになりました。
廓信寺は発見者山田家の菩提寺。
中山道を進むと与野駅、そばに庚申堂があります。
青面金剛像、邪気、三猿が見て取れますが1714年建立の年代物。
すぐ先には一本杉の仇討ち跡の碑。
一本杉は樹高が約18m、周囲3mといわれ、松並木の中で一際ひいでた大樹でした。
こちらで宮本鹿太郎に討ち取られた河西祐之助は先程の廓信寺で供養されています。
幕末最後の仇討ちとして中山道界隈に語り継がれてきたとのこと。
先には「六国見」の碑もあります。
浦和と大宮の中間であるところから半里塚と呼ばれる大ケヤキが聳えていたところ。
関東六国の山々を見渡せる見晴らしのよい名所として知られていました。
「木曽路名所図会」には「富士・浅間・甲斐・武蔵・下野日光・上州伊香保などあざやかに見えたり」とあります。
さいたま新都心が近づいてきました。
店舗数1400以上展開する「しまむら」グループの本社ビルが見えます。
さすが立派な大きなビル、1階と2階は店舗になっています。
お安く衣類が手に入るのは本当にありがたい。シニアにとっても強い味方ですね。
「火の玉不動尊」と「お女郎地蔵」が案内板と共に祠に祀られています。
大宮宿の旅籠「柳屋」。旅人の相手をしていた姉妹、千鳥と都鳥。
千鳥は材木屋の若旦那と恋仲になったが大盗賊の神道徳次郎が割って入り千鳥を身請けすると脅しに。
主家に迷惑は掛けられないと高台橋から身を投じた千鳥。悲しい物語です。
霊魂を慰めるためのお女郎地蔵がこちら。
そして、高台橋に毎夜飛ぶ火の玉。
投身して果てた遊女千鳥の霊魂という噂もあれば、傍らにあった石の不動明王の仕業だという噂も。
ある夜一人の男が例の火の玉を切りつけてみると、暗がりにいた男が「俺は不動明王だ」と名乗り「お前に剣を切り落とされた」言い残して消えてしまう。
翌日、不動の姿を確かめると、確かに剣を持っていなかった。
そこでこの不動様を「火の玉不動」と呼んだと言う。
このような話が未だ伝えられ石仏も残っているところが街道歩きの良さでもあります。
話に出てくる「高台橋」は北袋町と吉敷町の境を流れる鴻沼用水にかかる橋。
鴻沼用水は八代将軍・徳川吉宗は享保13年(1728)に見沼代用水西縁を掘削した折に掘られ西側に広がっている低地への灌漑用水にあてられました。
さいたま新都心→大宮
さいたま新都心駅を左手に見て先へ進むと、「氷川神社一宮」の赤い鳥居です。
参道口には武蔵國一宮と刻まれた社標と常夜燈が迎えてくれます。
ケヤキ並木の参道が当初の中山道。
大宮宿は氷川神社の門前町として発展。
本陣一、脇本陣九、問屋場四、旅籠二十五軒の規模。
街道脇に立派な門があります。
「加賀前田家屋敷門」で明治になって江戸上屋敷から移築したもの。
向かいの路地を少し入ると「塩地蔵・子育て地蔵」。
大宮宿で病に倒れた父。二人の娘の夢枕に地蔵様が現れ「塩だちをするように」と告げられる。
言われたとおり塩だちをして近くの地蔵堂に祈ったところ、父の病が全快。
そこで、たくさんの塩をこの地蔵様に奉納し幸せに暮らしたとの言い伝えが。
街道に戻ると「涙橋跡」。
罪人の処刑場があり、親類縁者がこの橋で別れを惜しみ涙を流したところから溝川に架かっていた「中の橋」が「涙橋」と呼ばれるようになりました。
大宮の町は発展を遂げ、脇本陣や本陣、高札場の跡はビルになっています。
残念ながら昔の面影はありません。
ビルの間に「昔を偲ばせる建物」が1件残っていましたが、かなり傷んでいます。
少し奥へ入ると「倉屋敷稲荷神社」、岩槻城の出城であった寿能城の倉屋敷に由来するもので昔から五穀豊穣、商売繁盛、家内安全の神様として信仰されてきました。
大栄橋交差点左に「栗原家持仏堂」、脇本陣を勤めた栗原家の阿弥陀堂です。
街道をはさんだ先「東光寺」さんへ向かいましょう。
曹洞宗の禅にふれることが出来るお寺で、本尊は薬師如来。
草創以来880余年の歴史ある名刹、中山道を行き来する文人墨客が足を留めたところ。
山門には観音像、地蔵蔵、そして迫力ある一本の巨木を削って作られた、菩提達磨大和尚像、仏陀釈迦像があり、誰でも祈りを捧げられます。
これらは、富山県は彫刻で有名な井波の作家による作品。
「知足」
生きている、ただそれだけで充分に足りているということを知りましょう。
こんな教えが紹介されています。座禅会に参加したくなりました。
大きな木が二本茂っています。
土手町の「椎の木」と呼ばれ、街道の目印だったんですね。
先にあるのが、「官幣大社氷川神社社標」で裏参道の入口となります。
こちらから「氷川神社」に向かいます。
大宮→宮原
境内地は約3万坪、御祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田姫の命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、八岐大蛇退治や稲羽の白兎に登場します。
2400年以上の歴史を持ち武蔵一宮として関東一円の信仰を集めています。
裏参道の赤鳥居をくぐり、住宅地を少し歩けば左手に埼玉県神社庁、先が氷川神社。
金毘羅大権現、猿田彦神社、宗像神社、六社を経て御神橋を渡れば手水舎。
楼門から本殿へ進み、参拝しましょう。
5月20日から授与が開始された数量限定特別御朱印紙「神橋とほたる」を頂きました。
三の鳥居へ戻ると、戦艦武蔵の碑と「さざれ石」があります。
「君が代」に詠まれている「さざれ石」。
地下において小石を集結して次第に大きくなる。
やがて、その石が地上に出て、千代に八千代に年を経てさざれ石の巌をとなりて苔の生す。
説明書きを読んでみて、改めて素晴らしい国家だと認識できました。
街道へ戻る途中に日蓮宗「四恩寺」。
閻魔堂は女郎を死に追いやった大盗賊「神道徳次郎」の隠れ家と言われています。
この徳次郎が大宮新都心で見た、お女郎地蔵の説明書きの盗賊。
街道を辿ってくるとノンフィクションだということが分かります。
盗賊と言えば長谷川平蔵、鬼平犯科帳の世界。
徳次郎も市中引き回しのうえ、獄門だったのか。
長谷川平蔵は配下を率い、中山道大宮宿へ向かった。
長谷川平蔵 事件控え p276
神稲徳次郎一味が武蔵国大宮宿の付近に集まってきていることが、その手下らの尋問ではっきりしたからであり、平蔵は配下を最大に動員していた。
街道に戻り、本日のゴール宮原へ。
街道沿いに、1860年建立の「大山道道標」、大山、御嶽山の文字がみてとれます。
住宅地へ少し入っていくと「八百姫大明神」、人魚の肉を食して八百歳まで生きたとされる八百比丘尼(やおびくに)が滞在したところと言われているそうです。
疱瘡の神として信仰が篤かった「石上神社」(いそのかみ)。
疱瘡の伝染は大変恐れられ、村人は他村で発生すると村内へ伝染しないようにと神社をまつりました。
街道には1832年建立の供養塔、1777年建立の南無三界萬霊塔が。
新幹線の高架手前に、江戸時代前期の1697年に建てられた「東大成庚申塔」。
祠の中には青面金剛像・二鶏、三猿が浮き彫りにされています。
地元では、耳の神さん、眼の神さんと大事にされています。
和菓子の「くらづくり本舗」の大型店が街道沿いにあります。
川越が本社で埼玉県内に40店舗も展開しており、我が家もお世話になっています。
いつもデパート内店舗での購入なので、路面店に入るのは初めて。大きさにびっくり。
定番の「福蔵」、「べにあかくん」他、見繕って購入。
もうすぐゴールの宮原駅。
もう一軒、和菓子屋さん発見。
こちらも立ち寄りましょう。
元治元年(1864年)創業の「梅林堂」さんは熊谷の和菓子屋さん。
一番人気の生サブレ「やわらか」は浅煎りきなこと、たっぷりバターでやみつきの味。
店舗限定の朝生菓子の「塩大福」は最高級のもち米「滋賀県産羽二重糯米」を使用。
おいしそうなお菓子がたくさん並んでいます。
橋供養塔を通り宮原駅に到着。
約14km、4時間弱のウオーキングでした。
地元でお世話になっている氷川神社の総本社である「大宮氷川神社」に参拝できたことが大きな収穫。
より一層、地元での晦日参りに気合がはいりそうです。
歴史ある街道、建物や人に関わる言い伝えや物語も多く興味は尽きません。
病気になった旅人や宿場で働く人々、処刑場への別れ、そして盗賊、それらにまつわる神仏の話。
平和が続いた江戸時代ならではの人情噺は温かみがあって心がほっこりします。
今まで、あまり興味がなかった時代劇専門チャンネルが気になり始めました。
次回は桶川宿へ向かいます。
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