東海道 その4 鶴見→保土ヶ谷(天王町)
東海道その4は、鶴見→保土ヶ谷(天王町)を歩きます。
距離は18,2Km、所要時間は4:42時間 22,099歩、消費カロリー2688kcal
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鶴見駅→神奈川宿
京急鶴見駅の東口を出ると旧東海道で商店街が続きます。
すぐ右手が5代将軍綱吉の時代に創業の「サボテン茶屋跡」の碑。
店主が長崎から持ち帰ったサボテンが高さ4mにもなりサボテン茶屋と言われていたそうです。「みぎひだり つのを出して世の中を 見たるもおかし さぼてんの茶屋」と石碑には書かれていました。
覇王樹茶屋(サボテン茶屋)は「エスプラン」という人気のベーカリーとして現在営業されています。
街道を進むと国道15号、こちらを横断して少し先に味わいのあるガードが見えてきました。
昭和5年開業、昭和感満載の「鶴見線国道駅」です。ガード下のトンネル内に改札があり独特の雰囲気、営業中のお店もあるようです。昭和世代の私には、このレトロな感じがホッとします。
映画やドラマのロケでも使われているみたいですね。
人通りも少なく歩きやすい街道をレトロ感に浸りながら進めば、浄土宗の「慶岸寺」に到着。七福神巡りや六地蔵、古い石仏がたくさんあり、入口のお堂には、立派な「子育て地蔵尊」。
この辺り、お店は密集していませんが鮮魚、酒屋、米屋、お肉屋さんが続いています。見れば生麦魚河岸通りとあり、20店舗ほどの鮮魚店が立ち並ぶ穴場スポットのようです。
年末年始はアメ横のような感じになりそうな予感。買出しに来ると楽しそう。
街道を右手に少し入ると、沢山の朱色の鳥居が目に飛び込んできます。
「蛇も蚊も祭り」発祥の神社、「道念稲荷神社」です。続く鳥居の奥には存在感のある社殿。約300年前、疫病が流行り、藁で作った蛇に悪霊を封じて海に流したことに始まると伝えられるこのお祭り、今も6月の第一日曜日に行われています。
街道に戻り歩いていると民家の軒下に生麦事件の案内と「昔の写真」が展示してありました。街道歩きで訪れる私のような人のために、地元の人が情報提供してくれているんですね。郷土愛とホスピタリティーに感謝です。
写真を見てみると、今とは違う全くの別世界。のどかな風景がひろがり、往時の空気が伝わった来るかのよう。
すぐ先には「生麦事件発生場所」の案内板。薩摩藩「島津久光」の行列に遭遇した4人のイギリス人が切られ、薩英戦争にまで発展したという事件。
薩摩藩が攘夷から倒幕へのきっかけともなった、つまり日本の歴史を大きく変えるきっかけともなった、歴史上重大な事件がこの地で起こったということ。その地に立っていることで、感慨もひとしおです。
すぐお隣に「御社母子稲荷神社」があります。「おしゃもじいなりじんじゃ」と読みます。
咳を治す神様がいらっしゃるらしいので、しっかりお参りしましょう。ここの入口に狛犬の代わりに鎮座している狐様、なかなか可愛いくて子ぎつねを従えていました。
生麦駅まで来ると生麦「神明社」があります。先程の「蛇も蚊も」が行われる神社で、境内に三猿を刻んだ「青面金剛像」が見られます。隣の神明公園には大きな「蛇のオブジェ」がありますよ。
左手に広大な敷地と工場の建物が続きます。「キリンビール横浜工場」です。
予約が必要ですが工場見学が出来、その後「ブルワリードラフトマイスター」こだわりの「一番搾り」を提供してくれることで人気のようです。レストランで食事もできるんですね。鮮度抜群のビール、飲んでみたい。
「生麦事件碑」を過ぎると国道15号に旧道は合流、ここからしばらく国道歩きとなります。
六里目の一里塚、「東子安一里塚跡」の案内を確認。北側には榎、南側には松が植えられていたとの説明です。
隣にある「才兵衛稲荷」は浄財のお金を紛失して身を投げた僧を祀ってある神社。お坊さんの関係があるせいか、神様なのにお線香をあげる習慣がこの土地の人にはあるそうです。これも歴史ですね。
国道の反対側、京急の線路の向こうにあるのが高野山真言宗「遍照院」。
踏切の手前に灯篭、踏切の先が山門という珍しいシチュエーション。すぐ目の前を電車が走り抜けていき、「踏切寺」とも呼ばれているらしいです。六地蔵脇の大イチョウが見事でした。
街道を新子安駅方面に歩いていくと「トマトケチャップ発祥の地」の案内板があります。
子安は最初に西洋野菜を栽培しトマトケチャップ製造をはじめた農村の一つということ、1866年に始めたそうです。横浜開港によって西洋野菜も入ってきたんですね。
キャベツやトマト、セロリ、カリフラワー、玉ねぎ、今では当たり前の野菜がこの頃からだとは驚きました。
京急神奈川新町駅横の公園に「オランダ領事館跡碑」、長延寺跡です。このあたりが神奈川宿の江戸からの入口にあたります。
線路に沿って歩きガードをくぐると「笠䅣稲荷神社」(かさのぎいなり)です。元寇にあたっては北条時宗より神宝を奉納されている歴史ある神社。社前を通行する者の笠が脱げ落ちることから笠脱稲荷大明神と称されたとあります。笠脱(かさぬぎ)から笠䅣(かさのぎ)に改まったんですね。
ガードを戻ると「良泉寺」、浄土宗大谷派の寺院。開港当時、領事館に充てられる幕府の命令を断ったといわれています。本堂の屋根をはがして、修理中であることを理由にした住職さん、なかなかやりますね。
続いて鎌倉時代に創立とされている、真言宗の「能満寺」。この地の漁師が海中より霊像を拾い上げ建てた寺との伝承があり、本尊は海中から出現した虚空蔵菩薩。
街道歩き、寺院巡りをはじめて気になることとして、この海中から仏像を拾い上げたという話があります。浅草の浅草寺の話は有名ですが、他でも聞こえてくる話で一度調べてみる必要がありそうです。
すぐ隣の「東神奈川神明宮」は境内を流れていた上無川に牛頭天王のご神体が現れ、洲崎大神と神明宮に牛頭天王を祀ったとの伝承があります。牛頭天王とは日本における神仏習合の神。京都八坂神社の祭神でもあります。
神奈川宿→保土ヶ谷宿
神奈川小学校の壁に「東海道追分間延絵図」の神奈川宿部分が描かれており、「上無川」と「神奈川宿の説明」がありました。
水が少ししか流れておらず、水源が定かでないため上無川といい、「カミナシガワ」の「ミ」と「シ」を略して「カナガワ」というようになった、との説が江戸名所図解に記してあるとのこと。
神奈川の由来について考えたこともなかったので何だか得した気分。神奈川=上無川=かながわ、なるほど地名って面白いですね。
仲木戸駅まで来ると「東光寺」、「金蔵院」、「神奈川熊野神社」と寺社が続きます。
「東光寺」の本尊、薬師如来像は太田道灌の守護仏、小田原北条氏の家臣、平尾内膳がこの仏を賜り東光寺を草創したといわれています。
「金蔵院」には家康の御手折梅があり、かっては毎年一月にこの梅をたずさえて住職が登城するならわしがあったとあります。なんと風流なことでしょう、平和な時代だったんですね。
「熊野神社」は神奈川郷の総鎮守で古くは熊野三社大権現と称されました。
「狛犬」は鶴見村の石工飯島吉六の手によるものとあります。安政の大地震、関東大震災、横浜大空襲と3度の苦難を乗り越えてきた狛犬。子供を従えて、なかなかいい表情をしています。
文政七年(1824)の古地図も描かれている境内の「御神木」。その一つが戦災で焼失した後、見事に再生し今も残っています。これぞパワースポット、樹齢400年の力をいただきましょう。
すぐ先には「神奈川宿高札場跡」、資料をもとに復元したもので間口が約5メートルと大きなものです。高札場は幕府や領主が決めた法度や掟書を板書に書き掲げられて施設。
となりの「成仏寺」は鎌倉時代創建の浄土宗のお寺。開港当初はアメリカ人宣教師達の宿舎に使われ、ヘボン式ローマ字で知られるヘボンさんは本堂に住んでいたそうです。広く美しいお庭がお気に入りだったとか。
京急の線路反対側には「慶運寺」、開港当初は「フランスの領事館」だった場所。
「浦島寺」とも呼ばれ、浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっています。
「観音堂」の扉の小窓から堂内を見てみると、乙姫様から頂いたと言われている観音像が亀の上に乗って安置されています。横には浦島太郎像、乙姫像も控えていらっしゃいます。薄明りに照らされたお姿は何とも神々しく必見。
「手水鉢」はおおきな亀、竜宮城を連れて行ったくれるのかも。
滝の川を渡ると日蓮宗の寺院「淨龍寺」。開港当時は「イギリス領事館」に充てられた寺院です。日蓮上人の人格にうたれた妙湖尼が自分の庵を法華経の道場としたとあります。
川に沿って歩くと江戸時代に東海道中の名井戸に数えられた「神奈川の大井戸」。神奈川御殿に宿泊する家康のお茶の水に充てられたと伝えられています。
隣の「宗興寺」はアメリカ人宣教師で医者のヘボン博士が施療所を開いていた寺院。
「滝の橋」を渡ります。やはり海が近いんですね、橋の上からエイがゆったりと泳ぐ姿が見られました。この滝の川には河童が住んでいたとの伝説もあるようです。
滝の橋から国道に出ると神奈川町本陣跡碑。
神奈川宿は滝の橋をはさんで、東の神奈川町、西の青木町に本陣ができ、神奈川は石井家が、青木は鈴木家が任命されました。その「青木町本陣跡」も説明書きの通り橋をはさんで反対側にありました。
国道を渡り、旧東海道へ戻ります。ここ、「宮前商店街」のゲートが入口となります。
すぐ右側に大きな鳥居が見えてきました。「洲崎大神」は頼朝が安房の国、安房神社の御分霊を祀ったことに始まると伝えられる神社。参道は海に向かっており、すぐ先の現在の国道あたりが船着き場だったようです。
お隣は洲崎大神の別当寺であった「普門寺」。江戸後期は本堂の他に建物を持ち、イギリス士官の宿舎に充てられました。
すぐ横の「甚行寺」は土蔵造りの本堂に改造を加えて、フランス公使館に充てられた寺院。関東大震災で倒壊焼失、横浜大空襲で再度焼失し、現在の鉄筋コンクリートの寺院を再建とのことです。境内には見事なイチョウの古木もあります。
京急の神奈川駅のところが「青木橋」で京急とJRの線路を渡ります。ここは色々な電車を近くで見ることが出来る鉄道ファンには人気のスポット。私も思わず1枚「パシャリ」。
線路の両サイドは崖で切通しになっています。以前ブラタモリで特集していましたが、この辺りは鉄道開通の為に丘を切り開いて、その土でこの先の海を埋め立てたそうです。新橋―横浜間に鉄道が通されたのが明治5年(1872年)歴史を知ると見ている風景も変わります。
橋を渡ると前方の小高い山の上に大きな寺院が見えてきます。曹洞宗の「本覚寺」です。
ハリスは自らこの立地条件が気に入って、ここを「アメリカ領事館」に決めたといいます。ここに立つと、湾内を見通せる最高の場所であることが実感できます。昔はもっと敷地も大きかったようですが、国道の整備等で海側はかなり削られたみたいですね。
お隣の高台にもう一軒建つのが浄土宗のお寺「三宝寺」。弘法大師作と伝えられる薬師如来像を本尊としていましたが先の大戦で焼失、現在の本尊は芝増上寺より遍座したもの。
この空中に浮かぶかのような造りは見事で、隣のマンションのエレベーターで屋上まで上がって拝殿迄移動も出来る珍しい寺院。街道のマンションの入り口には「三宝寺」の石柱、もちろんエレベーターで昇りましたよ。
そして、「大網金毘羅神社」と続きます。平安末期の創立で、もとの飯綱社は境内後方の山上にありその後琴平社を合祀とあります。大天狗の伝説でも知られる歴史ある神社、こちらも眺めが良かったことでしょう。
参道の入口は一里塚跡、江戸時代には街道両脇に置かれており、土盛の上には桜が植えられた大きなものだったようです。日本橋から七つ目となります。
街道は上り坂が続きます。ここ「台町の坂道」は広重の神奈川・台之景として描かれた場所。左側はすぐ海ということになります。現在は海は埋め立てられ、両側にマンションや住居が立ち並び往時の面影はありませんが、かっては神奈川湊を見おろす景勝地だったんですね。
東海道中膝栗毛にも登場する台町の茶屋、弥次さん喜多さんも一杯やってますよ。
息を切らしながら坂道を登っていくと、左手に素敵な日本家屋が見えてきました。文久年間、創業150年余りの老舗料亭、「田中屋」です。あの広重の絵にも「さくらや」として描かれているといいますから歴史を感じますね。
坂本龍馬の妻、おりょうさんが住み込みの仲居として働いており、龍馬の恋文が残っているそうです。
夜の会席は16,000円~29,000円、その他しゃぶしゃぶ、すっぽん、うなぎ鍋と特別料理コースも用意されています。一度くらいは、このような料亭で歴史を感じながら一献傾けてみたいものです。
さらに坂道を進んでいくと「神奈川台の関門跡」です。横浜周辺の主要地点に作られた警備体制強化のための関門跡。当時の写真を見ると結構頑丈そうな門が見て取れます。
上台橋まで登って来ました。左側が崖で下には神奈川湊が拡がり潮騒が聞こえる海辺の道であったといいます。ここが「神奈川宿の京口」、神奈川宿はここまでとなります。
首都高速を渡る手前右が「勧行寺」。天然理心流開祖、近藤内蔵助長裕の墓があります。街道歩きで何度も登場する近藤勇は四代目となります。
浅間下の大きな交差点の先、高台には「浅間神社」。こちらは横穴古墳が多く残されており古墳時代の有力豪族の墓とみられています。富士講が盛んだった江戸時代、この高台を富士山に見立てて創建された浅間神社の盛況ぶりが伺えます。
神社から先、大通りと並行した交通量も少ない旧東海道をのんびり歩きます。
人通りが増えてきました、「芝生の追分」に到着です。かっては大山道標があり、ここは東海道と八王子道が分かれる重要な場所。八王子で盛んに作られた絹が運ばれ「絹の道」と呼ばれたそうです。
街道は保土ヶ谷宿の「江戸方見附跡」までやってきました。ここから先、いよいよ保土ヶ谷宿です。
賑やかな商店街を進むと「橘樹神社」(たちばな)。牛頭天王社として創建された歴史があります。この辺りの町名が天王町なのは、このような由来があったんですね。
活気ある商店街はシルクロード商店街と名前が付いています。先程の追分にあった八王子からの絹の道の歴史背景に由来して付けた名前で、その名の通りバザールの様相。買い物にも便利でお惣菜も豊富で賑わっています。スーパーばかりで、このような商店街はすくなくなりましたね。住みやすそうな街でうらやましい。
商店街を抜けて、本日のゴール相鉄線の天王町の駅に到着です。
生麦を過ぎて、神奈川宿に入ると神社仏閣目白押し。歩いた距離も時間もいつもより多めです。
でも、疲労感はそんなにありません。開港当時の領事館跡がズラリと並び、歴史ある神社も点在する魅力的なコースで楽しい街道歩きができました。
鎖国が長かった日本、この地域には多くの外国人が住み始めたわけですから治安維持も大変だったことでしょう。葬祭供養や学校、住民の心のよりどころとしてなくてはならなかった神社仏閣。
領事館として充てられるという重要な役割も担ったお寺の住職さんは、さぞかし大変だったことでしょう。政治・宗教・文化・地域社会と多岐にわたり重要な意義ある場所だったことを改めて知り、ますます興味がわいてきた街道歩きでした。
次回、戸塚宿への道のりにも新たな発見が待っていることでしょう。
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