今から約40年前、バブル前の日本は活気にあふれ学生のサークル活動も大いに盛り上がります。
そんな時代背景の中、学生ツアーなるサークルが関西で発足、やがて関東にもその波は押し寄せスキーや沖縄アイランドツアー、ディスコパーティーなどを企画、多くの学生が集い楽しい日々を繰り広げていきます。
私が所属するハニービーツアーの他、ファインツアー、シーハイルツアー、元祖といえるナッツベリー、優良サークル合併で名実ともに最大級のバケーションシステム、イケメン揃いのレオツアー、ラブキャット、YGカウンティ、オレンジペコ、ルミ、ホワイトベア、メリールーなど数多くのサークルが、しのぎを削っていた時代。
学生パワー全開だった懐かしい古き良き時代、ノスタルジックな青春時代の思い出を探す旅へ出かけます。
スキーツアー
「私をスキーに連れてって」の公開が1987年、「JR SKISKI」は1991年のスタート。学生ツアーは、それ以前1980年頃から活動が始まっており、80年代後半のスキーブームの火付け役となった訳です。
スキーはお金が掛かるので「限られた社会人だけが楽しめるもの」という感じでしたが、学生には時間があります。そして、新しいこと、最先端の流行を追いかけたいというチャレンジ精神が旺盛です。
そこで、多くの若者にスキーの楽しさ経験してもらうため各サークルは英知を絞ってツアーを企画。ツアースタッフが女子大の通学路や渋谷スペイン坂、新宿や横浜の街頭でツアーパンフを配り集客に励みます。
メイトと呼ばれるお客様。ツアーに何度も通ってくれるメイト、友達をたくさん連れてきてくれるメイト、添乗スタッフを指名してくるメイト、スタッフに転向するメイト、それぞれ贔屓のツアーがあって、ツアーブランド化が進んでいきました。ハニービーも多くのメイトさんたちに支えられて成長していきます。
スタッフはパンフ配りやツアーの添乗員、現地の駐在員もやりますがバイトではなく、サークルスタッフとしての活動なので無給です。チーフ、サブチーフが組織は統制し上下関係や規則は厳しく、特定のお客様と仲良くすることは禁止。ホスピタリティーに欠けたり、ルール違反のスタッフは即刻退場です。
そんな学生ツアーでの活動ですが、多くの仲間と知り合いになれる、リフト無料券がもらえる、タダで旅が楽しめるメリットもありました。一番の魅力はツアーを楽しんで頂いたお客様から、感謝のお言葉を頂けること。リピーターの獲得はスタッフ冥利に尽きます。
スキー場に目を移すと年々増えるスキー人口に対応するため、スキー場はどんどん新設されて、大手ホテルチェーン、地元の民宿やロッジも新たにオープンし大賑い。また、脱サラ組がペンションなるオシャレな宿泊形態を登場させ、スキー場がオシャレな街へと進化していったわけです。
ハニービーでは、多くの若者がスキーを気軽に楽しめるようスキー場に通い、主要ホテルやロッジのオーナーと値段や条件交渉をします。また、東京のスキーツアーを取り扱っている旅行会社とも交渉を続けました。
結果、誰でも気軽に参加してスキーが楽しめる1万円を切る価格のツアーが完成することになります。
お金の面でツアー代金と並んでもう一つのネック、スキー用具については、なんと「貸しスキー無料サービス」を実現。これで初心者の参加も可能となり、一気にツアー参加者が増えることとなります。協力会社や無給のスタッフの働きによって実現できたドリームツアーです。
低価格を実現するために、スキーバスは補助席も使ったり、ホテルは男女別の相部屋で10畳に10人の、すし詰め状態の時もあったり、オーバーブッキングで当日になってスキー場の行き先を変更して頂くなど、今では考えられない荒業で成り立っていた面もあります。クレームもありましたが、最後はみんな仲良くなって帰るという、古き良き時代でした。
ツアーの告知方法もパンフレットを配るだけでなく、若者に人気だった雑誌、Fineやオリーブ、JJ、ホットドッグプレスなどにも広告を出稿。ツアー参加者にはダイレクトメール(電子メールは、まだ世の中に存在しませんので、郵便です)で情報を発信。
また、広告代理店や旅行会社とのタイアップ企画などで幅広く集客に努めます。スケールメリットが出せたおかげで、ツアーは更にリーズナブルになりました。
ハニービーフレンドシップクラブのメンバーになると、ツアー割引や提携ショップでの特典も受けられました。
現地では、スキーが上手いスタッフが初心者向けにスクールを開催、夜はホテルでDISCOパーティーやゲームや芸能大会で盛り上げ、お客様をもてなします。
スキー場は初心者向けの北志賀をホームゲレンデとし、志賀高原、斑尾高原、野沢温泉、八方尾根、栂池高原、苗場などのスキー場でも楽しめる企画を準備、初心者から上級者まで、数多くのスキーヤーに利用いただきました。
3月の終わりに開催されるサヨナラスキーツアーには常連のメイトさんも勢ぞろい。感謝祭の大イベントが開催されます。そして、ゴールデンウイークに開催される東京での再会ディスコパーティーへとイベントは続きます。
ディスコといえば、ジョントラボルタのサタデーナイトフィーバーが1977年、マイケルジャクソンのスリラーが1982年、折しも六本木や新宿ではDISCOブーム、赤坂のビブロス、六本木のメビウス、新宿のツバキハウスから始まり、84年にはあのマハラジャが開店します。
サーファーディスコが人気で、六本木ではネペンタ、フーフー、キサナドゥー、ナバーナ、レオパードキャッツ、マジック、赤坂シンデレラ、渋谷スターウッズなど連日満員御礼状態だったと思います。
ハニービー、スキー場では北志賀の「DISCO BOZZ」、東京では不夜城六本木のスクエアビル6階「スタジオ・ワン」と提携して、パーティーや入場割引サービスを行い東京でのナイトライフもサポート。
当時ディスコで流れていた数々の名曲、今はYouTubeで聞くことができますが全く色あせていません。あれから40年、各アーティストいい歳の取り方しています、輝きは当時のまま。見習いたいものです。
「Earth Wind & Fire」「Ray Parker JR」「Bobby brown」「Kool &The Gang」「Cheryl Lynn」「Shalamar」 「Jody Watley」「Sheila E」「Cameo」「Evelyn Champagne King」「Chaka Khan」「El Debarge」など、が顔をそろえています。必見⇩
洋楽だけではありません。街が輝いていたこの頃、都会的なシティポップと呼ばれる音楽も人気でカーステレオやラジオから流れていました。山下達郎、角松敏生、ユーミン、杏里、竹内まりや、大滝詠一、ハイファイセット、八神純子、尾崎亜美、EPO、原田真二、オメガトライブ、最近Z世代に人気があるという松原みき「真夜中のドア」、まさしく黄金時代だったと思います。
沖縄・ヨロン島ツアー
この時代は夏といえば波乗りです。六本木で朝まで踊って、そのまま第三京浜飛ばして湘南へ。こんなシャレた遊び人連中も登場し街は大いに盛り上がったものです。一方、サーフィンはしないけど、ファッションだけはサーファールック、「おか(陸)サーファー」なる言葉も登場。東京はカオス状態でした。
そんな夏は、学生ツアーの連中も黙っていません。そう、旅行、それも南の島。あこがれはハワイへ行くことなんですが、まずは沖縄からが合言葉。学生ツアーではハニービーを含めてヨロン島が人気でした。
船会社とのタイアップで安く行けることが要因の一つ。ヨロン島の最安ツアーは6泊7日SEA&SEA、往復船のコースです。ヨロンまでは、片道船中2泊ですから、島に泊まるのはたったの2泊、船中4泊です。でも、船内でのディスコパーティーやイベントもあり、お客様を飽きさせません。学生ならではのプラン。
沖縄本島とヨロン島両方楽しめる、片道飛行機のSEA&JET、往復飛行機のコースも人気でした。
都会からの若者が多く集まるヨロンの街。茶花には、サザンクロスやスカイラブなどシャレたディスコ、カフェバーもオープン、プライベートに近い地元のビーチはマリンスポーツも充実。
バナナボート、水上スキー、グラスボート遊覧、夜光虫見学ツアーなど一日中楽しめる夢のような世界。百合が浜という星の砂で出来たビーチ、あの美しさは今も忘れられない光景です。
忘れちゃいけない「与論献奉」という儀式がヨロン島にあります。有泉(黒糖焼酎)ストレートを大きな盃で回し飲みをするものですが、今となってはいい思い出です。ちなみに、宮古島にも「お通り」という似たような儀式があります、こちらは泡盛の水割り。歴史ある南の島のおもてなしの儀式です。
また、コテージスタイルのプリシアリゾートが出来たこともヨロンの人気を高めました。
本島のビーチサイドに目を移すと、万座ビーチホテルが1983年に開業、この年の全日空の沖縄キャンペーンは山下達郎の高気圧ガールが印象的でした。そしてJALの沖縄キャンペーンガールが鳥越マリ、吉川十和子へと続いていきます。
また、近場では気軽に行ける伊豆七島、新島・神津島・式根島や伊豆白浜の海水浴バスツアーも人気で夏を思いっきり楽しんだものです。
マスコミにも登場
このころは深夜放送も人気があり、83年からフジテレビでオールナイトフジがスタート、秋本奈緒美、鳥越マリのMCで人気を博しました。これをきっかけに、オールナイターズ、東京・日本・津田(トン・ポン・ツー)の御三家、赤短・青短と、女子大ブームが盛り上がっていきます。
ハニービーではこのオールナイトフジでハワイツアーの生コマーシャルを行い、夜中に事務所の電話が鳴りやまないという事態が発生。
秋本奈緒美さんを電話に出せとか、無言で切るようないたずら電話がほとんどでしたが、ツアーへの申し込みもあります。思えば、ジャパネットに先駆けてテレビショッピングのすごいパワーを思い知らされたわけです。ハワイツアーは3回も実施されました。
ハワイでもスタッフのおもてなしは健在です。ワイキキビーチはもちろん、ハナウマベイやノースショアへも足を延ばします。まだ日本には紹介されていなかったレインボーカラーのシェイブドアイス(かき氷)をみんなで楽しみ、夜はディスコ。
ワイキキのハワイアンリージェントホテル内の「ポイントアフター」へ繰り出します。深夜になってお腹が空いたらハワイなのに「えぞ菊」で味噌ラーメンというパターンがハニービー。
ホノルルにはKIKIというラジオステーションがありラジオ局にも訪問、人気DJのカマサミコングにインタビューなんてこともしていましたね。日本でもKIKIのロゴマーク入りのトレーナーやグッズが流行った頃です。
湘南をはじめミニFM局なんかも開局し、映画では「波の数だけ抱きしめて」で中山美穂がFMステーションのDJでした。「私をスキーに連れてって」、「彼女が水着に着替えたら」に続く、ホイチョイプロの三部作、若者のバイブルでしたね。
また、当時「プロポーズ大作戦」という人気番組があり、ハニービーはこちらにも登場します。番組の前半は、出会った気になるお相手を依頼者の希望に応じて番組が探し出し、番組でご対面という企画。
ハニービーのツアーで知り合った男の子に逢いたいとの依頼が番組にあり、レポーターの「桂きん枝」さんが渋谷の事務所にやって来て情報を聞き出すというもの。この番組が放送されて知名度が一層あがりました。
番組の後半は、ツアーのゲーム大会でパロって大いに盛り上がった「フィーリングカップル5vs5」。パンチでデートなど、昭和の明るい恋愛バラエティ番組の懐かしい一コマです。
こんなことを約8年間も続けたおかげで、スタッフも8代続き延べで100名くらいのメンバーになります。今でもスタッフは仲間の冠婚葬祭、忘年会や新年会、ゴルフなど楽しい遊び仲間として友情関係は続いており人生における大切な財産となっています。
機会があれば、スタッフだけじゃなく当時通ってくれたメイトさんたち、ライバルだった他の学生ツアーのメンバーも交えて六本木で大同窓会ディスコパーティーが出来たら楽しいだろうな~なんて妄想しているゆうでした。
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